マタイによる福音書 2章13~23節
今日、わたしたちは多くの課題をかかえて、2017年を迎えました。神に生かされている者として、信仰に生きる者として、その姿勢を糺し、感謝と希望をもってこの一年を歩み出したいと思います。
しかし、そんな思いのわたしたちにとって、今日の聖書の言葉は、重く悲しい出来事を報告しています。この聖書を通して神は何をわたしたちに語りかけようとしておられるのでしょうか。
幼子イエスの誕生を祝って、外国の占星術の学者たちはやってきましたが、彼らには、ヘロデ王からの要請、願いが託されていました。ヘロデ王は、権力の座への執着が異常なほど強く、その座を脅かしかねない存在は、たとえ家族であっても殺害してしまう冷酷な王でした。
そんなことを知らない外国の学者たちは、ユダヤ人の王として生まれた方は、どこにおられるのかと尋ねて、王宮までやって来たのです。ユダヤ人の王として生まれた方であれば、当然、王宮で分かると考えたのでしょうが、それが裏目に出ます。
ヘロデ王は、残虐な計画を裏に隠しながら、学者たちに要請します。
「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかった知らせてくれ。わたしも行って 拝もう」と。
さて、幼子イエスを探し当てた学者たちは、ひれ伏して拝み、自分たちの仕事にとって掛け替えのない道具である、黄金、もつ薬、乳香を献げます。その彼らが、神から「ヘロデ王のところへ帰るな 」と示され、別の道を通って帰って行きます。
ヘロデ王の要請に従うことよりも、神から示された事を学者たちは優先させたのです。わたしたちが、単なる物語としてこの出来事を読んでいる間は、自分のこととして迫ってきはしません。
この出来事を、わたしたちの時代のこととしてとらえ直す必要があります。王の要請、それは現在の社会に置き換えていえば、国の要請するところと言えます。学者たちは、国が求めることを拒絶して、神が示された道を歩んだのです。そのことが、幼子イエスの命を守ることとなったのです。
幼子イエスは、大変危険な立場に置かれていました。たとえ学者たちの報告は得られなかったとしても、ユダヤ人の王として産まれた者が、どの辺りに産まれたのかという情報をヘロデ王は把握していました。その後の展開が、今日読んだ聖書の内容です。
主の天使が幼子イエスの母マリアの夫ヨセフに告げます。「ヘロデがこの子を探し出し殺そうとしている。」「危険を避けるため、エジプトまで、この子と母親を連れて逃げなさい。」
彼らにとってエジプトに逃げるということ、それもなんら準備のできないままに、急いで逃げなければならなかったということ、それがどれほど辛いことであったか。
今、生活している場所が突然危険な状態になり離れなければならなかった人々。現代もそのような人々の苦しみが続いています。シリア難民がどれほど困難な状態でそれまでの生活の場から逃げているのかを、わたしたちは報道により知っています。
国外だけでなく、日本においても同様の困難を抱えている人々がおられます。福島第一原発の事故で放射能に汚染され、故郷に住めなくなった多くの人々がおられます。
それまでの仕事も避難先では続けられなくなります。隣近所と共に作り上げてきた地域の繋がりからも、ばらばらに引き離されてしまいました。もとの生活を取り戻すことはもはや不可能です。不安定な状態を、少しでも改善しようと努力している最中に、国からの補償が突然取りやめになると通告されます。
避難先で、新しい人間関係をつくり生きようとしている人びとに心ない言葉の暴力が襲います。子どもが避難して通い始めた学校で、バイ菌と呼ばれ傷つけられ、教師からも同様に呼ばれて、学校に行けなくなったという報道が私たちの心を痛めました。それだけでなく、大人の社会の中にも、バイ菌という言葉の暴力、地域から排除する力が避難生活する人々を襲っているという事実に、私たちは衝撃を受けました。
国内避難民となって生活する人々は、元の生活の場所では命の危険があります。しかし、避難した先にも平安があるわけではありません。これが、罪深い私たち人間の作り上げる冷酷な現実なのです。
幼子イエスと母マリアを連れてエジプトへ逃れたヨセフですが、避難したからといって、それで安心とはいえない状況に置かれるのです。
幼子イエスが無事逃れた後も、ヘロデ王の政治的暴力の嵐がベツレヘムの人々を襲います。ヘロデ王の権力の座を脅かす、ユダヤ人の王として産まれた方が、少なくともベツレヘムという場所に産まれたとの情報をヘロデ王は持っていました。その幼子を亡き者にしようと、ヘロデ王はベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺害してしまうのです。
2000年を経た現代も、戦闘の犠牲者の多くが幼い子どもたちです。そして、戦闘という直接的な暴力でなくとも、国の政策のまずさがもたらす子どもの貧困が、子どもたちの成長の希望や喜びを奪ってしまっている現実があります。
こんなにも重く、悲しい出来事が、クリスマスの出来事として聖書に記され、そして、私たちの今の現実にも重なってくるのです。
ところが、その出来事を記す聖書には、単に重く悲しいだけではない言葉が繰り返されているのです。「預言者を通して言われていたことが実現する」という意味の言葉が、それぞれ独自の表現で3回も繰り返されているのです。
人間は多くの悲惨を昔も今も生み出してしまってます。しかし、神はその悲惨のただ中に神の御心を成し遂げられるのです。命を育み、支える希望を粘り強くもたらそうとされるのです。
一つ目の預言者の言葉は、15節です。幼子イエスと母マリア、そしてヨセフがエジプトへ逃れた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と預言者を通して神が言われていたことが実現するためであった。
これは、ホセア書11章1節の「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、我が子とした」の引用です。エジプトで奴隷の苦しみにあえいでいたイスラエルの人々を、神が救い出された事を振り返っているのです。モーセを指導者として神がたてられて、イスラエルの人々をエジプトから脱出させられました。神は、恵みをもってエジプト脱出を実現したのです。出エジプト記に記されている内容です。
神は、このようにして、イスラエルの民を愛された。ところが、そうであるにもかかわらず、とホセアの預言は続きます。今読んだホセア書11章1節の続き、2節にはこう記されています。「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らは去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた」。神は、幼いイスラエルを愛しエジプトからの脱出を果たさせたのに、彼らは神から離れてしまった。
神がもたらされた出エジプトは決定的な救いとはならず、民はなお迷うこととなってしまった、とホセアの預言は語るのです。これを受けてマタイ福音書は、このホセアの預言はイエスにおいて実現するのだと言うのです。イエスがエジプトから呼び出される事によって、神がなそうとされた救いが本当の意味でイエスにおいて実現するのだと語るのです。
さて二つ目の預言、17節では、実現するためであったとは表現されません。むしろ、神の御心を無視して人間が犯す残虐行為が繰り返されてしまっていると語ります。「こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから』」。
預言者エレミヤの時代にあった嘆きは、今も続いているとマタイ福音書は語るのです。ただエレミヤ書には、更に次のように預言が続くのです。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」
人間の暴虐がもたらす悲痛な叫びは、今も絶えません。しかし、神はそのままで放置されはしない、神はその苦しみに必ず報いて、希望をもたらされるのだと語るのです。17節の引用は、このエレミヤの慰めの預言を暗示します。イエスにおいて、預言は実現し、神のなそうとされてきたことが、この世界にもたらされるのだと告げるのです。
さてヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて語ります。「起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。」これに従って、ヨセフは幼子とその母を連れて、イスラエルに地に帰ってきた、と記されています。
実は、今日、一番注目したい箇所です。神は、ヨセフに夢の中で、イスラエルの地に帰りなさい、とは言われず、行きなさいと言われました。まずは、このことに注目しておきます。神から告げられたことを聞いたヨセフは、今わたしたちの聖書では「帰って来た」となっています。しかし、これはもとの場所に戻るから「帰って来た」と解釈して翻訳されているのです。言葉通りには、「イスラエルの地に入って行った」なのです。
どこかに出かけて帰ってきて、「ただいま」「おかえり」というようなお気軽な事柄ではないのです。幼子イエスを連れたヨセフとマリアたちは、エジプトへ避難したからといって、安定した生活が保証されるわけではなかったということを現代と重ねあわせながら先ほど確認しました。
ただ、たとえそうであっても、生活を続ける中に、生活の場がそれなりにできあがっていきます。いろいろ問題が残されているとしても、その場であればこその生活の支えと感じ取れるものができてきます。
そこを離れて、再びイスラエルに向かうというのは、どこかに旅行してきて帰るというのとは、全く事情が違うのです。イスラエルに行ったら、その先で改めて生活を立て直さなければなりません。しかも、死んだヘロデ王の3人の息子の中では最も冷酷なアルケラオが、元生活していたユダヤの地を支配していました。そのため、ヨセフたちは、北の外れのガリラヤで生活を立て直すこととなるのです。
この家族は、命の危険から逃れるためにエジプトへと向かいました。エジプトの保護に頼ったのです。簡単なことではありませんでした。それでもエジプトには命を守るものがったのです。
今、再び、エジプトを出ることを求められました。今いる場所エジプトにも、またこれから向かうイスラエルにも、困難があるのであれば、それなりに生活を作り上げている今の場所に留まったほうが無難とも思えます。
しかし、この家族には、エジプトを再び出ることで、神がもたらされる救いを実現する道をたどるよう示されたのです。彼らがたどったのは、今の生活を支えている現状に頼り、そこに安住するのではなく、神が示される道を歩むということでした。
神は、世界のあらゆる力をも用いながら、たとえばエジプトを用いながら、この家族を守られました。この世界の力が、つまり逃れていった先のエジプトが彼らを守ったのではありません。神が彼らに危険を知らせ、エジプトに逃れさせたのです。神が、彼らを、それなりに作り上げていた生活の場から離れさせ、出エジプトを実現させたのです。
神によって導かれたヨセフが、母マリアと幼子イエスを守り、その命を育みました。神こそが、幼子イエスを守り支えられたのです。神が守り支えられた、この幼子イエスこそ中心です。
三つ目の「預言者たちを通していわれていたことが実現した」とある「彼はナザレの人と呼ばれる」についてですが、実は、この言葉は預言者の言葉には見あたらないのです。しかし、旧約聖書の中に神に特別の誓願をたてて献身したナジル人というのが登場してきます。この特別に神に献身したナジルびと。イエスこそ、まさにそのナジル人だとの語呂合わせで、23節は記されていると考えられています。このイエスこそ神に徹底して献身した者なのです。幼子イエスこそ中心です。
この幼子イエスと共に生きる母マリアとヨセフに神は守りと導きを与えられたのです。ラマで激しく嘆き悲しむ声が響く、その悲惨な現実の中で、最も弱い存在である幼子イエスと共にいる母マリアとヨセフが、神から呼びかけを受け、その生きている生活の枠を越えて歩み出すよう働きかけられたのです。
神の導きに信頼し、委ね、とりあえずの安定に執着することなく、留まることなく、神の呼びかけに応えて歩み出す中に、命の道があったのです。
私たちの生きる世界には、そして日本の社会の中には悲痛な叫びがこだましています。その現実から目をそらして、今の生活そのままに留まることもできます。神からの呼びかけに耳を閉ざして、取りあえずの生活の安定をもたらしているエジプトに留まり続けることもできます。
しかし、神は私たちに呼びかけられるのです。エジプトを出なさいと。はたしてどうなるのかとの不安があります。向かうイスラエルには、なお危険があります。しかし、神が支え導いてくださるのです。
ここに私たちへの呼びかけがあります。私たちには、今作り上げている生活の場があります。隣近所との繋がりを大切にして私たちは生きています。それは極日常的なことで、大切なことです。しかし、その安住している世界に、ラマで聞こえたような激しく嘆き悲しむ声がこだまするのです。
幼子イエスと共に生きることに、私たちの命の支えを見出す信仰に生きる私たちは、今生きているこの日本の社会の中で、そしてこの世界の中で、神の御心が何であるのか、真実を尋ね求めながら、神の呼びかけにこそ応えて生きていきたいと願います。
そこに導きがあるのです。預言者エレミヤの言葉に改めて聞きたいと思います。
「ラマで声が聞こえた。激しく歎き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、 慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。」「主は言われる。泣きや むがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われ る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」
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