2017年3月23日木曜日

「イエスの洗礼」森田喜之牧師

マタイによる福音書 3章13~17節

 先日、私は母を連れて森ノ宮にある成人病センターへ行きました。この病院は癌専門の総合病院です。ですから、患者への配慮は他の病院以上に求められる場所です。それで病院内は携帯電話は原則として禁じられています。公衆電話のそばか、自動販売機の近くに限って、使用が認められています。その日、母の診察が終わり、会計をするために窓口のそばに座っていました。すると隣に座っている男性が携帯電話で話し始めたのです。当然禁じられている場所です。隣ですから、話しの内容も聞こえてきます。
 「君ね、ボランティア活動をするなら、まずは英語をもっと勉強して、海外でも活動できるようにしなさい」と話しているのです。わたしは、人に迷惑をかけるようなことをしておいて、何を偉そうに言ってるんだと思いカチンときました。
 「ここは、携帯電話だめですよ」と私が言うと、チラッと見ただけで、わたしの注意を無視して話しを続けるのです。改めて「ここは携帯電話はだめですよ」というと、その人は立ちあがりながら「わかっとるわ、うるさいなぁ」と携帯を切って、後ろの座席に移動したのです。余計にカチンときて、もうひとこと言おうとした時に、会計の支払いの順番がきたので、わたしは仕方なく、会計の支払い窓口に行き、支払いを済ませました。母には薬の処方箋が出ていて、病院の外にある薬局に母に行ってもらい、私は駐車場に停めてある車を取りに行って、薬局の前で母を迎えるということを伝えました。
 母が病院から出て行ったのを見送り、ふと見ると先ほどの男性が支払いのため並んでいるのに気づきました。母のいる前では、言い争いになるかもしれないことは避けたかったのですが、幸い母は病院から外に出て行ったので、私は改めてその方に声をかけました。「さっき、何と言われましたか」。すると、その方は私に顔を近づけてきて「なんや、警察、呼ぼか」とすごまれます。わたしは構わずに、「携帯かける場所は配慮が必要でしょ」と言うと、「緊急の電話やったんや」と言います。わたしは、心の中であれは緊急ではないでしょ、と思いながら。「どういう事情があるかは別にして、すぐそこに携帯電話をかけられる場所があるんですから、そこに移動すればいいでしょ」と言うと、その人は「わたしは医者だぞ」と返されたのです。
 私は、これを聞いて余計にがっかりしました。医者なら、患者への配慮について病院が協力を求めているのになぜそれを無視するのか、と思いました。が、それは言わずに「場所を考えなさい」と言い残して、母を待たせるといけませんから、その場を離れ駐車場へ向かいました。                          この出来事は、あとあとまでいやな気分を残しましたが、同時に「私は医者だぞ」の一言に、私たち人間の抱える根深い罪の現実を感じてしまいました。

 間違いを指摘されても、それを素直に受け止めることができず、嘘の言い訳をしてしまう。自分の面目を保とうとして、そういうことになるのでしょうが、むしろかえって自分の面目を自らつぶしてしまっている。ほんとに恥ずかしいことなのに、本人はそのことに気付いていないのです。しかも、それが医者だという。「先生」と呼ばれる立場になると、余計にそのようになってしまう傾向がある、というのが残念です。私も先生と呼ばれることが多いので、自戒しなければならない出来事です。
 今読みました、マタイによる福音書3章。ここにバプテスマのヨハネが登場してきます。彼は、全ての人々に悔い改めを呼びかけて、ヨルダン川を舞台に、その水でバプテスマをさずけていました。彼は、らくだの毛皮でつくった衣を着て、革の帯を腰に締め、人里離れた荒野を住まいとしていました。荒野は、生きるために必要なものが簡単には手に入らない場所です。ヨハネは、神によって命を支えられるということに徹底して生きていました。食べ物は、イナゴと野蜜だけでした。ギリシアでは、紀元前7世紀から養蜂家がいたとの記録があるそうです。ですから、この聖書の時代には、野生のミツバチから蜜を手に入れる技術があったのです。 
 かつてエジプトで奴隷となったイスラエルの民が、そのエジプトを脱出し、荒野を旅した時のように。頼れるのは神のみの世界にヨハネは生きていたのです。そして、この神にのみ信頼する生活の中で研ぎ澄まされた感覚で、その時代の世界の本質を見抜き、悔い改めを呼びかけていたのです。
 元々、バプテスマは、外国人がユダヤ教徒となるために割礼を受ける前、清めのために行われていました。つまり、バプテスマを受けるのは伝統的には外国人だけでした。それを、ヨハネは全ての人々に迫ったのです。誰もが、神の前に罪深い存在であること、矛盾を抱え身勝手であることを認め、悔い改め、罪を告白してバプテスマを受けることを迫ったのです。
 ヨハネには、よほどカリスマがあったのか、神の都エルサレムからも、そしてユダヤ全土から人々がヨハネのもとに集まってきて、ヨハネから洗礼を受けたのです。ここに描かれるヨハネは厳格に信仰に生きる者の姿です。人々から尊敬を集めていました。ヨハネには弟子もいました。

 そこにイエスも来られたというのが、今日読んだマタイ福音書の箇所です。幼子イエスの記録が記されていたのが、2章までですから、マタイ福音書では公に活動を始める方として初めて登場する場面です。イエスの活動の原点とも言える場面です。人々が罪の告白をなし、ヨハネからバプテスマを受けていた、その中の一人としてイエスも並ぼうとされたのです。
 ヨハネは、自分の後に来られる救い主のことについて、「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」とまで言っていましたから、イエスがヨハネからバプテスマを受けたいと申し出られた時、「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、どうしてあなたがわたしのところに来られたのですか」とヨハネは応じました。このヨハネの躊躇を、私たちも当然そうだろうと感じます。
 ヨハネは、かなり抵抗しただろうと思うのですが、イエスは「私たちにとって正しいことをすることなのだ」と言われます。この「正しいこと」というのは、「神との関係において最も必要なこと」という意味です。神が求めておられること、それがイエスがバプテスマを受けるということなのだというのです。
 罪を告白する人々の中に、イエスが並ぶということが、神が求めておられることなのだというのです。ヨハネは、どうしてそんなことと、抵抗しました。私たちも、ヨハネが躊躇を覚えるのは当然だろうと感じます。
 しかし、ヨハネにしても、私たちにしても、この抵抗、この躊躇が実は曲者なのです。救い主は、その履物をお脱がせする値打ちも自分にはないと、たてまつるべきものとして私たちは理解してしまっているのです。そんな素晴らしい方にあやかって、私たちが救い主の素晴らしさの一部となりたいと、イエスを思い描き賛美するのです。
 上を見上げて、今いるところより、より高い場所に上りたいと、私たちはいつの間にか思い描いてしまうのです。そんな私たちに、イエスは逆の方向へと目を向けさせられるのです。罪を告白し、悔い改めて生きることこそが、信仰生活の原点なのだと。世の中は、上を目指し、競争に勝ち抜き、立派になることこそ、人生の目標であり、幸せの基準であるかのように動いています。そのためには、時には手段を選ばず、手に入れた富や社会的地位にしがみついて、そこに留まろうとするのです。間違いを指摘されても、言葉を尽くして誤魔化そうとします。
 しかし、それはなんと不自由なことでしょうか。ありのままの自分を認めることができないのです。自分の弱さを隠そうとして誤魔化し続けるのです。なんと疲れることでしょうか。
 完全な者は一人もいません。誤りを犯さずに生きることができる人は一人もいません。私たちは、人間関係の中で葛藤を抱え、時にぶつかり合います。古代から、現在に至るまで、誤りを犯さなかった国や民族というのは存在しません。
 であるにも関わらず、自分の間違いを認めてしまうと、全ては瓦解するかのように、頑固に自分の正しさを主張し、結果的に惨めな姿をさらけ出していまうのです。

 そんな私たちの前で、イエスは命の原点に立ち返るように、今迫られるのです。ヨハネから洗礼を受けられることを求められるのです。罪を告白する者たちの列に並ばれるのです。自分で自分の正しさを主張して、心を頑なに閉ざすのではなく、神の前に率直に罪を告白するところに、わたしは一緒にいるとイエスは言われるのです。過去の歴史の誤りを謙虚に認め、悔い改めにふさわしい在り方を求め始める時に、神はその国の歩みを祝福されるのです。
 イエスがヨハネからバプテスマを受けられ、水から上がられると、天がイエスに向かって開いた、とあります。天は、神がおられるところという意味です。ヨハネからバプテスマを受けられ、罪の告白をする者たちに並ばれるイエスこそが、神の御心を表す方であることが示されたのです。
 温かく私たちを受け入れ、ありのままの私たち、多くの問題を抱えたままの私たちと共にいてくださるイエスに支えられて、私たちは罪の告白をしつつ生きる者でありたいと思います。
 私たちは懸命に確かに生きてきたつもりではあっても、それでも矛盾を抱え、限界をもって生きていることを認め、神の導きに委ねるものでありたい。そこにこそ、真の平安がもたらされる。そのことを感謝して受け取りたいと思います。

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