マタイ福音書 5章1~12、17~20節
「心の貧しい人は幸いである」で始まる、この山上の説教の冒頭の部分は、聖書をあまり読んだことのない人でも、耳にしたことがあるという人が多いところです。しかし、内容は戸惑いを与えます。「悲しでいる人」に対して、あなた幸せですねと語りかけるなんて、普通ありえないことです。
普段、私たちが求めていることは豊かになることです。悲しむことより、喜ぶことを求めます。迫害されるなんて、とても引き受けられません。映画「沈黙ーサイレントー」は遠藤周作の原作をかなり丁寧に映像化していますが、そこで描かれる迫害の熾烈さは衝撃的でした。そのような迫害を受ける状況になったら喜びなさいなどとなぜ言えるのでしょうか。
幸いであるとの言葉の中には、「柔和な人」などもあってとてもスムーズに受け取ることのできる部分もあるのですが、イエスはなぜ悲しむ人は幸いであるだとか、迫害される人は幸いであるなどと言われたのでしょうか。
イエスがこのように言われたのは、実はイエスの話しを聞こうと集まってきた人々をまず励まし、慰めようとされたからなのです。4章23節から読むと、イエスが語りかけられた人々がどのような人々であったかが描かれています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」イエスはこの群衆を見て、山の上から語りかけられたのです。
この人々は、病気の辛さだけではなく、当時の社会では、排除され、後まわしにされるという苦しみを味わっていました。周りから無視され、馬鹿にされている人々でした。私たちがこの立場に置かれた場合、ただただ嘆き、悲しみ絶望的な思いにかられるだけではないでしょうか。
最近『従順という心の病い』という本が翻訳され出版されました。この本について『本の広場』2月号の中で、同志社香里中学・高校の聖書科主任である富田正樹さんが、とても的確な紹介文を書かれています。
「なぜ自由競争において敗北させられている貧困者ほど、貧困者を抑圧するような 新自由主義的な政策を掲げる政治家に票を入れるのか。
なぜ重税と福祉に苦しむ当事者であるはずの有権者が、税を引き上げつつ福祉予 算をカットする政権を維持させ、文句も言わずに唯々諾々と従うのか。
なぜ最も不安定で、自らが戦場に送られる可能性が最も高い若者が右翼的で全体 主義的であり軍備を拡大しようとする政権を喜んで支持するのか。
この誰がどう考えても不可解な日本人の行動を理解するのに有益な」のがこの書物だと紹介されます。
著者によれば、この「従順」という心の病いは、幼少期に育ての親から与えられたものが根源にあるというのです。従順を親から強制的に押しつけられた子どもは、自分の本来の感情や要求を自分の内側に押さえ込んでしまい、親の期待する姿を自分自身だと思い込んでしまいます。そして、やがて親(特に支配的な父親)を自分自身と重ね合わせ同一のものと考えるようになります。
そして、自分の中に押さえ込んだ本来の自分の感情や要求を許されないものとして、憎むべきものとして否定しようとします。この子どもはやがて大人になり、この嫌悪感を他の人にぶつけ、自由に生きようとする人を貶め見下すことができた時に、自律した、一人前の生き方ができると錯覚するようになるのです。
従順な人間が、自分自身の行動に責任を感じなくなってしまいます。だからこそ、歴史の中で、常に従順の名において残酷な犯罪が行われてきたと言うのです。
イエスのもとに集まってきた人人は、社会の中で抑圧され、虐待されている人々、そして、そのような人々と共にいる人々でした。
イエスの言葉は、その人々の心の奥に押さえ込んでいる感情や要求をもう一度浮かび上がらせるものでした。周りから無視され、馬鹿にされ、後まわしにされる状態に置かれ続けると、私たちは心を閉ざし、自分の世界に閉じこもって、それ以上辛い思いにさらされないようにしようとしがちです。
このような人々に対して、イエスは、あなたがたは新しい可能性に開かれているのだと、語りかけているのです。
心の貧しい人とは、日本語で普通に用いられる意味とは全く違った意味で聖書では用いられています。日本語では、心が貧しいというと、了見が狭いとか、人間が小さいとかの意味で用いられます。ここでは、そうではなくて、自分自身の不十分さ、弱さをよく知っていて、神の恵みに支えられて生きることに謙虚に心を開いている人々のことです。
先ほどの「従順という心の病い」の紹介で触れられていたように、人は自分を押さえつける支配的な力に迎合し、その力の一員になったかのように錯覚することで満足感に捕らわれてしまう場合があります。自分の弱さに目を向けず、支配的な力の一員になったかのような充足感に浸ってしまうのです。これに対して、心の貧しい人というのは、自分の弱さを素朴に知っている者のことです。
神さまが、どんな小さな者をも見過ごさず、掛け替えのない者として大切に受け止めてくださる方であることに信頼すればこそ持てる姿です。イエスは、今まさに話しかけている人々、一人ひとりにそのような大切な命として出会われ語りかけておられるのです。
悲しむ者を、神は慰めてくださる。病気で苦しみを味わっている上に、更に人びとから非難され、無視されながら、なおも柔和である人、憐れみ深い人というのも、その苦しみの中にありながらも、自分たちを決して見捨てられない神のおられることを信じることができればこそ保てる姿です。イエスはあなたがたはその幸いな者として生きることができるのですと語り掛け、出会っておられたのです。 迫害がなくなること、それがどれほど望ましいことか。迫害される時、人は自分の命が何の価値も無いかのように感じ取ってしまいます。周りから苦しめられ、傷つけられ続けると、自分がこの世界に必要とはされていないという思いにかられてしまいます。
しかし、イエスは、それらの人々の命がどれほど尊いものであるかということを宣言されたのです。迫害の中で懸命に生き、他者を傷つけず、命の尊さを守り通そうとするあなたの命がどれほど掛け替えのないものであるか、そのことを神は見ておられると、イエスは語りかけられています。
イエスのこの祝福のことばは、今の私たちにも語りかけられています。「従順という心の病い」で指摘される如く、私たちは自分の本来の感情や要求を、自分の内側に押さえ込んでしまっていはしまいか。
この社会で今起こっている様々な出来事に本当は悲しみを感じているはずではないのか。
義に飢え渇くような状況が続く中で、その思いを押さえ込み、無感覚になっていはしまいか。 もはや平和とは言えない日本の現状の中で、なお平和だと自らを思い込ませ、平和を実現したいという心の底の願いに蓋をしてはいまいか。
イエスは、自分のところに集まってきた人々の抱える現実に、悲しみと痛みと叫びがあることを深く受け止めておられました。そして、旧約の時代から律法と預言者を通して神が示してこられた御心を、イエスを通して全うするのだと宣言されるのです。
イエスのもとに集まった人々の痛み、悲しみ、叫びのある現実から離れて、信仰深く生きているかのような、律法学者やファリサイ派の人々のような信仰の姿勢は、神の御心からは遠いのだと言われるのです。
私たちは、イエスのこの「幸いである」との呼びかけに支えられ、今私たちの生きる社会の中にある痛みに学びたいと願います。神が御心をなされる、その現場に私たちも与る喜びを知る者でありたいと願います。
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