マタイ福音書 14章22~36節
いま私たちは、大きな脅威に囲まれて生活しています。最近では、アメリカのトランプ大統領が誕生したことで、アメリカ中心主義が台頭し排外主義がはびこる懸念が広がりました。
パスカルがパンセの中で興味深いことを言っています。「脅威が迫ってくる時、私たちは恐怖、不安を感じる。しかし、その脅威の中に入ってしまうと恐怖や不安を感じなくなってしまう」と。
脅威が迫ってくる時、それはつまり脅威が外から見えている状態で、この時は恐怖を感じるのですが、その脅威の中に入ってしまうと、外から見るという状態ではなくなり、恐怖を感じなくなってしまうというのです。他の国を外から見ていて、問題点に気づいていながら、日本の中にいるとこの国の抱えている問題に気づけなくなってしまっている。アメリカを見ながら、日本の国の抱えている問題を改めて考えなければならないと思います。
このようなことに触れる理由は、イエスが弟子たちを「強いて舟に乗せた」という事の意味について考えたいからです。この出来事の直前には、5000人の給食の奇跡が記されています。しかし、更にその前に何があったのか。領主ヘロデがバプテスマのヨハネの首をはねたというおぞましい出来事が記されています。
ヨハネの弟子たちは、その遺体を引き取って葬り、イエスのところへ行って、ことの次第を報告しているのです。これを聞いて、イエスは舟に乗って、その危険な場所を去り、人里離れた場所へ退かれたのです。危険な空気がイエスの周りに漂い始めているのです。
その中でイエスは弟子たちを強いて舟に乗せて、向こう岸へ向かわせたのです。この強いて舟に乗せたという表現に、イエスの特別な意図があることをにおわせています。
今、バプテスマのヨハネの首がはねられるような恐怖政治が行われている現実の中を生きているのです。舟で渡るということが人生によくたとえられます。弟子たちの生きている現実は、大変な荒波の中にあるのです。その荒波の中をどう生きるのか、イエスはそのことを示すために弟子たちを強いて舟に乗せられたのです。すると、舟は逆風を受け、波にもまれて進めなくなってしまいます。
すでに岸からこぎ出して何スタディオンも進んでしまっているので、元の場所に戻る事もできません。袋小路にはまり込んだような恐怖が彼らの胸を締め付けます。人は、恐怖に駆られると、普段だったら何げなく見過ごしていることも、新たな恐怖の種となってしまいます。
わたしは、学生時代、大変なストレスから酷い十二指腸潰瘍になり2ヶ月入院したことがあります。まだ入院することになる前、大変な疲れを感じている夜、何げなく鏡に映った自分の顔が、まるで自分自身に襲いかかってくるかのような恐怖を感じて、鏡から離れたことがありました。単に疲れた顔が、そのように見えてしまったのです。余程疲れていたのだと思います。
不安、恐れが心にあると、何でもないことが恐怖の種となるのです。弟子たちは、夜明け前の薄明かりの中で、なおも逆風に悩まされ続けていました。湖の底にはレビヤタンという怪物、日本でいえば龍のような怪物が住んでいると考えられていました。舟が転覆すれば、死に呑み込まれる恐怖の中にいたのです。何もかもが恐ろしく感じられる、その弟子たちのところへ、近づいてこられるイエスを見て、幽霊だと思ったとしても無理からぬことだと言えます。
イエスが湖の上を歩いてこられたというのは、余りにも非現実的なことの様に感じられます。しかし、そもそも神の導きというものも私たちにとってあり得ないことのように思えることがあるのです。私たちにとってもはや絶望でしかないという現実の中で、私たちの思いを超えて神が私たちに迫ってこられ、手を差し伸べられるということがまさにそうです。イエスが湖の上を歩いて弟子たちに近づいてこられたという表現でこのことを象徴的に物語っているように思えます。な
恐怖のあまり叫び声をあげている弟子たちにイエスは「安心しなさい、わたしだ」と声をかけられます。弟子たちにとって、イエスはどのような時にも揺らぐことのない支えで、弟子たちにとっていか大きな慰めであるか。イエスの声を聞いた弟子たちの恐怖は全き平安へと変えられます。
それだけだに留まりません。ついさっきまで絶望と不安をもたらしていた波立つ水の上を歩いてイエスに近づくように命じて欲しいとさえペトロは求めます。先ほども言いましたが、バプテスマのヨハネの首がはねられてしまうような恐怖政治が行われていました。イエスの「安心しなさい」という言葉にペトロは支えられて、この恐怖政治の荒波の上を渡らせて欲しいとイエスに願ったのです。
「来なさい」とのイエスの声に励まされ、ペトロは波立つ水の上を歩いて渡ろうとします。しかし、どんなに支えを得ても私たちは迷う弱さを抱えています。強い風ののほうに意識が向いてしまうと、ペトロは再び恐怖に捕らわれ沈みかけてしまいます。そして、イエスに「主よ、助けてください」と叫んだのです。
このペトロの叫びについて皆さんはどう感じられるでしょうか。わたしは最初、素朴にイエスを信じ切れず、恐怖に呑み込まれてしまったんだと否定的に受け止めていました。
しかし、イエスはすぐに手を伸ばして、ペトロを捕まえられたのです。「主よ、助けてください」という呼びかけに、イエスはすぐに応えてくださるのです。エイスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われましたが、これは信じ切れなかったペトロに対する憐れみの言葉だと思うのです。
このペトロを見て考えさせられるのは、私たち自身のことです。「主よ、助けてください」と叫べば、イエスはその声に応えてすぐにわたしたちの手をつかんでくださるということを、わたしたちは本当に信じて委ねることができているのでしょうか。
「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらへ行かせてください」とイエスに求めることは、わたしたちには無謀に思えてしまいます。
繰り返しになりますが、わたしたちの生きている現実は、今や危険に満ちた荒波ごとき状態です。
わたしたちは、その現実の中で「主よ、助けてください」と叫ぶ必要のないように荒波を避けて生きていないでしょうか。
中心都市から遠く隔てられた地域で、軍事基地の危険に苦しめられている人々がいます。原子力発電のもたらす危険を目の当たりにしながら生活を送る人々がいます。南スーダンに送られた自衛隊員たちは、戦闘の脅威にさらされています。貧しい人々の生活が更にむしりとられながら、一部の富裕層の利益だけが守られるような政治が行われています。そして、今や、人が集まって現在の政府に批判的な話しをしただけで捕らえられてしまうような法律が作られようとしています。
バプテスマのヨハネの首がはねられた恐怖政治の現実の中をどう生き抜くべきかを学ばせるために、弟子たちを強いて舟に乗せられたイエスは、ペトロの姿を通してわたしたちに呼びかけておられます。「主よ助けてください」と叫ぶなら、すぐにその手を捕らえて助け出す、だから、「この波立つの水の上を歩いてわたしの方に来なさい」と。 「助けてください」と叫ぶ必要もない安全圏に留まり、自分の安全を確保することに留まり、命を支え導く主イエスへの信頼から遠く離れた場所に落ち着いてしまってはいまいか。
イエスが歩まれる命の道に従い、人の痛みを我が痛みとして「主よ助けてください」と共に求めるものとなることができるように、導きを求めたいと思います。わたしたちもペトロの如く「主よ、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と呼びかけることが出来るように。「安心しなさい、わたしだ。畏れることはない」との声を聞かせてくださるように祈りたい。
イエスの服の裾に触れて病を癒された人々の如く、全面的な信頼をイエスに抱いて歩んでいきたいと願います。