2017年3月23日木曜日

「絶望、不安から希望へ 」森田喜之牧師

マタイ福音書 14章22~36節

 いま私たちは、大きな脅威に囲まれて生活しています。最近では、アメリカのトランプ大統領が誕生したことで、アメリカ中心主義が台頭し排外主義がはびこる懸念が広がりました。
 パスカルがパンセの中で興味深いことを言っています。「脅威が迫ってくる時、私たちは恐怖、不安を感じる。しかし、その脅威の中に入ってしまうと恐怖や不安を感じなくなってしまう」と。
 脅威が迫ってくる時、それはつまり脅威が外から見えている状態で、この時は恐怖を感じるのですが、その脅威の中に入ってしまうと、外から見るという状態ではなくなり、恐怖を感じなくなってしまうというのです。他の国を外から見ていて、問題点に気づいていながら、日本の中にいるとこの国の抱えている問題に気づけなくなってしまっている。アメリカを見ながら、日本の国の抱えている問題を改めて考えなければならないと思います。
 このようなことに触れる理由は、イエスが弟子たちを「強いて舟に乗せた」という事の意味について考えたいからです。この出来事の直前には、5000人の給食の奇跡が記されています。しかし、更にその前に何があったのか。領主ヘロデがバプテスマのヨハネの首をはねたというおぞましい出来事が記されています。
 ヨハネの弟子たちは、その遺体を引き取って葬り、イエスのところへ行って、ことの次第を報告しているのです。これを聞いて、イエスは舟に乗って、その危険な場所を去り、人里離れた場所へ退かれたのです。危険な空気がイエスの周りに漂い始めているのです。
 その中でイエスは弟子たちを強いて舟に乗せて、向こう岸へ向かわせたのです。この強いて舟に乗せたという表現に、イエスの特別な意図があることをにおわせています。
 今、バプテスマのヨハネの首がはねられるような恐怖政治が行われている現実の中を生きているのです。舟で渡るということが人生によくたとえられます。弟子たちの生きている現実は、大変な荒波の中にあるのです。その荒波の中をどう生きるのか、イエスはそのことを示すために弟子たちを強いて舟に乗せられたのです。すると、舟は逆風を受け、波にもまれて進めなくなってしまいます。
 すでに岸からこぎ出して何スタディオンも進んでしまっているので、元の場所に戻る事もできません。袋小路にはまり込んだような恐怖が彼らの胸を締め付けます。人は、恐怖に駆られると、普段だったら何げなく見過ごしていることも、新たな恐怖の種となってしまいます。
 わたしは、学生時代、大変なストレスから酷い十二指腸潰瘍になり2ヶ月入院したことがあります。まだ入院することになる前、大変な疲れを感じている夜、何げなく鏡に映った自分の顔が、まるで自分自身に襲いかかってくるかのような恐怖を感じて、鏡から離れたことがありました。単に疲れた顔が、そのように見えてしまったのです。余程疲れていたのだと思います。
 不安、恐れが心にあると、何でもないことが恐怖の種となるのです。弟子たちは、夜明け前の薄明かりの中で、なおも逆風に悩まされ続けていました。湖の底にはレビヤタンという怪物、日本でいえば龍のような怪物が住んでいると考えられていました。舟が転覆すれば、死に呑み込まれる恐怖の中にいたのです。何もかもが恐ろしく感じられる、その弟子たちのところへ、近づいてこられるイエスを見て、幽霊だと思ったとしても無理からぬことだと言えます。
 イエスが湖の上を歩いてこられたというのは、余りにも非現実的なことの様に感じられます。しかし、そもそも神の導きというものも私たちにとってあり得ないことのように思えることがあるのです。私たちにとってもはや絶望でしかないという現実の中で、私たちの思いを超えて神が私たちに迫ってこられ、手を差し伸べられるということがまさにそうです。イエスが湖の上を歩いて弟子たちに近づいてこられたという表現でこのことを象徴的に物語っているように思えます。な
  恐怖のあまり叫び声をあげている弟子たちにイエスは「安心しなさい、わたしだ」と声をかけられます。弟子たちにとって、イエスはどのような時にも揺らぐことのない支えで、弟子たちにとっていか大きな慰めであるか。イエスの声を聞いた弟子たちの恐怖は全き平安へと変えられます。
   それだけだに留まりません。ついさっきまで絶望と不安をもたらしていた波立つ水の上を歩いてイエスに近づくように命じて欲しいとさえペトロは求めます。先ほども言いましたが、バプテスマのヨハネの首がはねられてしまうような恐怖政治が行われていました。イエスの「安心しなさい」という言葉にペトロは支えられて、この恐怖政治の荒波の上を渡らせて欲しいとイエスに願ったのです。
 「来なさい」とのイエスの声に励まされ、ペトロは波立つ水の上を歩いて渡ろうとします。しかし、どんなに支えを得ても私たちは迷う弱さを抱えています。強い風ののほうに意識が向いてしまうと、ペトロは再び恐怖に捕らわれ沈みかけてしまいます。そして、イエスに「主よ、助けてください」と叫んだのです。
 このペトロの叫びについて皆さんはどう感じられるでしょうか。わたしは最初、素朴にイエスを信じ切れず、恐怖に呑み込まれてしまったんだと否定的に受け止めていました。
 しかし、イエスはすぐに手を伸ばして、ペトロを捕まえられたのです。「主よ、助けてください」という呼びかけに、イエスはすぐに応えてくださるのです。エイスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われましたが、これは信じ切れなかったペトロに対する憐れみの言葉だと思うのです。
 このペトロを見て考えさせられるのは、私たち自身のことです。「主よ、助けてください」と叫べば、イエスはその声に応えてすぐにわたしたちの手をつかんでくださるということを、わたしたちは本当に信じて委ねることができているのでしょうか。
 「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらへ行かせてください」とイエスに求めることは、わたしたちには無謀に思えてしまいます。
 繰り返しになりますが、わたしたちの生きている現実は、今や危険に満ちた荒波ごとき状態です。
 わたしたちは、その現実の中で「主よ、助けてください」と叫ぶ必要のないように荒波を避けて生きていないでしょうか。
 中心都市から遠く隔てられた地域で、軍事基地の危険に苦しめられている人々がいます。原子力発電のもたらす危険を目の当たりにしながら生活を送る人々がいます。南スーダンに送られた自衛隊員たちは、戦闘の脅威にさらされています。貧しい人々の生活が更にむしりとられながら、一部の富裕層の利益だけが守られるような政治が行われています。そして、今や、人が集まって現在の政府に批判的な話しをしただけで捕らえられてしまうような法律が作られようとしています。
 バプテスマのヨハネの首がはねられた恐怖政治の現実の中をどう生き抜くべきかを学ばせるために、弟子たちを強いて舟に乗せられたイエスは、ペトロの姿を通してわたしたちに呼びかけておられます。「主よ助けてください」と叫ぶなら、すぐにその手を捕らえて助け出す、だから、「この波立つの水の上を歩いてわたしの方に来なさい」と。 「助けてください」と叫ぶ必要もない安全圏に留まり、自分の安全を確保することに留まり、命を支え導く主イエスへの信頼から遠く離れた場所に落ち着いてしまってはいまいか。
 イエスが歩まれる命の道に従い、人の痛みを我が痛みとして「主よ助けてください」と共に求めるものとなることができるように、導きを求めたいと思います。わたしたちもペトロの如く「主よ、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と呼びかけることが出来るように。「安心しなさい、わたしだ。畏れることはない」との声を聞かせてくださるように祈りたい。
 イエスの服の裾に触れて病を癒された人々の如く、全面的な信頼をイエスに抱いて歩んでいきたいと願います。

「打ち砕かれた魂へ導く教え 」森田喜之牧師

マタイ福音書 5章1~12、17~20節

 「心の貧しい人は幸いである」で始まる、この山上の説教の冒頭の部分は、聖書をあまり読んだことのない人でも、耳にしたことがあるという人が多いところです。しかし、内容は戸惑いを与えます。「悲しでいる人」に対して、あなた幸せですねと語りかけるなんて、普通ありえないことです。
 普段、私たちが求めていることは豊かになることです。悲しむことより、喜ぶことを求めます。迫害されるなんて、とても引き受けられません。映画「沈黙ーサイレントー」は遠藤周作の原作をかなり丁寧に映像化していますが、そこで描かれる迫害の熾烈さは衝撃的でした。そのような迫害を受ける状況になったら喜びなさいなどとなぜ言えるのでしょうか。
 幸いであるとの言葉の中には、「柔和な人」などもあってとてもスムーズに受け取ることのできる部分もあるのですが、イエスはなぜ悲しむ人は幸いであるだとか、迫害される人は幸いであるなどと言われたのでしょうか。
 イエスがこのように言われたのは、実はイエスの話しを聞こうと集まってきた人々をまず励まし、慰めようとされたからなのです。4章23節から読むと、イエスが語りかけられた人々がどのような人々であったかが描かれています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」イエスはこの群衆を見て、山の上から語りかけられたのです。
 この人々は、病気の辛さだけではなく、当時の社会では、排除され、後まわしにされるという苦しみを味わっていました。周りから無視され、馬鹿にされている人々でした。私たちがこの立場に置かれた場合、ただただ嘆き、悲しみ絶望的な思いにかられるだけではないでしょうか。
 
 最近『従順という心の病い』という本が翻訳され出版されました。この本について『本の広場』2月号の中で、同志社香里中学・高校の聖書科主任である富田正樹さんが、とても的確な紹介文を書かれています。
 「なぜ自由競争において敗北させられている貧困者ほど、貧困者を抑圧するような  新自由主義的な政策を掲げる政治家に票を入れるのか。
  なぜ重税と福祉に苦しむ当事者であるはずの有権者が、税を引き上げつつ福祉予  算をカットする政権を維持させ、文句も言わずに唯々諾々と従うのか。
  なぜ最も不安定で、自らが戦場に送られる可能性が最も高い若者が右翼的で全体  主義的であり軍備を拡大しようとする政権を喜んで支持するのか。
  この誰がどう考えても不可解な日本人の行動を理解するのに有益な」のがこの書物だと紹介されます。
 著者によれば、この「従順」という心の病いは、幼少期に育ての親から与えられたものが根源にあるというのです。従順を親から強制的に押しつけられた子どもは、自分の本来の感情や要求を自分の内側に押さえ込んでしまい、親の期待する姿を自分自身だと思い込んでしまいます。そして、やがて親(特に支配的な父親)を自分自身と重ね合わせ同一のものと考えるようになります。
 そして、自分の中に押さえ込んだ本来の自分の感情や要求を許されないものとして、憎むべきものとして否定しようとします。この子どもはやがて大人になり、この嫌悪感を他の人にぶつけ、自由に生きようとする人を貶め見下すことができた時に、自律した、一人前の生き方ができると錯覚するようになるのです。
 従順な人間が、自分自身の行動に責任を感じなくなってしまいます。だからこそ、歴史の中で、常に従順の名において残酷な犯罪が行われてきたと言うのです。

 イエスのもとに集まってきた人人は、社会の中で抑圧され、虐待されている人々、そして、そのような人々と共にいる人々でした。
 イエスの言葉は、その人々の心の奥に押さえ込んでいる感情や要求をもう一度浮かび上がらせるものでした。周りから無視され、馬鹿にされ、後まわしにされる状態に置かれ続けると、私たちは心を閉ざし、自分の世界に閉じこもって、それ以上辛い思いにさらされないようにしようとしがちです。
 このような人々に対して、イエスは、あなたがたは新しい可能性に開かれているのだと、語りかけているのです。
 心の貧しい人とは、日本語で普通に用いられる意味とは全く違った意味で聖書では用いられています。日本語では、心が貧しいというと、了見が狭いとか、人間が小さいとかの意味で用いられます。ここでは、そうではなくて、自分自身の不十分さ、弱さをよく知っていて、神の恵みに支えられて生きることに謙虚に心を開いている人々のことです。
 先ほどの「従順という心の病い」の紹介で触れられていたように、人は自分を押さえつける支配的な力に迎合し、その力の一員になったかのように錯覚することで満足感に捕らわれてしまう場合があります。自分の弱さに目を向けず、支配的な力の一員になったかのような充足感に浸ってしまうのです。これに対して、心の貧しい人というのは、自分の弱さを素朴に知っている者のことです。
 神さまが、どんな小さな者をも見過ごさず、掛け替えのない者として大切に受け止めてくださる方であることに信頼すればこそ持てる姿です。イエスは、今まさに話しかけている人々、一人ひとりにそのような大切な命として出会われ語りかけておられるのです。
 悲しむ者を、神は慰めてくださる。病気で苦しみを味わっている上に、更に人びとから非難され、無視されながら、なおも柔和である人、憐れみ深い人というのも、その苦しみの中にありながらも、自分たちを決して見捨てられない神のおられることを信じることができればこそ保てる姿です。イエスはあなたがたはその幸いな者として生きることができるのですと語り掛け、出会っておられたのです。        迫害がなくなること、それがどれほど望ましいことか。迫害される時、人は自分の命が何の価値も無いかのように感じ取ってしまいます。周りから苦しめられ、傷つけられ続けると、自分がこの世界に必要とはされていないという思いにかられてしまいます。
 しかし、イエスは、それらの人々の命がどれほど尊いものであるかということを宣言されたのです。迫害の中で懸命に生き、他者を傷つけず、命の尊さを守り通そうとするあなたの命がどれほど掛け替えのないものであるか、そのことを神は見ておられると、イエスは語りかけられています。

 イエスのこの祝福のことばは、今の私たちにも語りかけられています。「従順という心の病い」で指摘される如く、私たちは自分の本来の感情や要求を、自分の内側に押さえ込んでしまっていはしまいか。
 この社会で今起こっている様々な出来事に本当は悲しみを感じているはずではないのか。
 義に飢え渇くような状況が続く中で、その思いを押さえ込み、無感覚になっていはしまいか。                                  もはや平和とは言えない日本の現状の中で、なお平和だと自らを思い込ませ、平和を実現したいという心の底の願いに蓋をしてはいまいか。
 イエスは、自分のところに集まってきた人々の抱える現実に、悲しみと痛みと叫びがあることを深く受け止めておられました。そして、旧約の時代から律法と預言者を通して神が示してこられた御心を、イエスを通して全うするのだと宣言されるのです。
 イエスのもとに集まった人々の痛み、悲しみ、叫びのある現実から離れて、信仰深く生きているかのような、律法学者やファリサイ派の人々のような信仰の姿勢は、神の御心からは遠いのだと言われるのです。
 私たちは、イエスのこの「幸いである」との呼びかけに支えられ、今私たちの生きる社会の中にある痛みに学びたいと願います。神が御心をなされる、その現場に私たちも与る喜びを知る者でありたいと願います。

「 イエス、漁師を弟子とされる」森田喜之牧師

マタイ福音書 4章18~25節

 もう正月も過ぎてしまいましたが、1年の初めを迎えると人はこの1年を展望して抱負を語り、夢を新たに描きます。わたしの大きな夢、それはかなえられるはずもないことですが、イエスが人々に語りかけられる言葉をそのそばで聞き、イエスが為される奇跡をそのそばで体験することです。
 そのことが許された弟子たちというのは、なんと幸せなことかと羨ましく思います。一体イエスの弟子となるにはどんな条件が満たされる必要があったのでしょうか。
どんな師弟関係でも最初の弟子集団というのはとても重要視されます。イエスの最初の弟子も他の弟子たちとは違って、イエスの重要な場面にいつも立ち会っていました。
 一つの場面。今読みましたところに登場する4人のうちアンデレを除く3人は、イエスが高い山に登られ栄光に白く輝く姿に変わられ、旧約時代の重要人物であるモーセとエリヤという過去の人たちと語り合うという不思議な場面に立ち会っています。そしてもう一つ。イエスがエルサレムにあるゲッセマネの園で敵に捕らえられ、処刑される直前、血のしたたりのような汗を流しながら神に祈られた時も、3人はそのそばに招かれていました。
 そんな重要な位置を占める弟子は、いったいどのような条件を満たしていたのだろうと、わたしは羨ましく思ってしまいます。ただ、その条件というのがはっきりとは分かりません。 
 分かっているのは、最初に招かれた弟子たちは皆漁師だったということです。ペトロという弟子は、中でも弟子の代表のように聖書の中では様々な場面で登場してきます。このペトロと呼ばれたシモンとその兄妹アンデレとは、湖で網を打って漁をしているところをイエスから「わたしについてきなさい」と言われ、即座に網を捨ててイエスについて従っています。 
 その後に登場するゼベダイの子たちはすでに漁も終えて舟の中で網を繕っていたのに比べると、ペトロたちは余裕がなく、漁をし続けなければならない状態であったようです。ペトロたちは、もっとも零細な漁師だったのでしょう。
 この地域の漁師の生活についてわたしたちは多くを知りませんが、聖書の記事の中に描かれる様子から想像することができます。それは、いつも自然の息吹を読み取りながら漁をしていたということです。ガリラヤ湖には、時に突風が吹き荒れ、高波が発生することがありました。弟子たちが嵐に遭遇する場面が、聖書には何カ所か描かれています。
 そんな危険な湖でしたが魚は豊富で、今でも口の中で卵をかえらせ、また稚魚の間も口の中で危険から守る珍しい魚や、コイの仲間、そして「キレネトのいわし」と呼ばれる15センチほどの小さな魚など様々な種類の魚が捕れました。
 漁師たちは、危険な湖で漁をするため、自然を読み取っていたのです。自然のリズムに抗うのではなく、そのリズムに従う中で生活していました。
 この深い湖の底にはレビヤタンと呼ばれる龍に似た怪物がいると信じられていた時代です。嵐の中、弟子たちは必死で舟を保とうとしながら、一人眠っておられるイエスを起こして「わたしたちが沈んでしまっても構わないのですか」と訴える場面も福音書に記されています。死の恐怖と闘いながら、彼らは力を合わせて、命をはって仕事をしていたのです。
 このような漁師であった弟子たちが、最初の弟子として招かれていたのです。弟子となるための条件といえるのかどうかは分かりませんが、イエスが弟子とされた人たちの一つの特徴というのが見えてくるように思えます。このことは、後でもう一度触れたい思います。

 イエスに招かれた時、弟子たちがどのように対応したのかのほうに目を向けたいと思います。今日読みましたマタイ福音書では、イエスの言葉かけは余りにも突然です。
 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、ペトロと呼ばれるシモンとその兄妹アンデレとが、湖で網を打っているのをご覧になって声をかけたというのです。かれらは、イエスが何を語り、どんなことをされるのか全く知らないままに声をかけられているのです。あとのゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様です。
 普通に考えると、突然声を掛けられてついていくなんて、なんと無謀な、そんなことあり得ないと私たちは考えます。ただ、このことで象徴的に表されていることがあります。彼らはイエスがどのような方であるかを理解できたから従ったということではないということです。イエスから声をかけられた時、なぜか内からつき動かされるものがあり踏み出したのです。聖霊の働きともいえます。そして、イエスに従った後に、イエスの為されることに触れ、理解を深めていくのです。
 わたしたちがイエスによって示された命の道を学ぶのも同様です。わたしたちはイエスの全てを理解できているわけではありません。しかし、このイエスにおいてこそ神が示してくださる命の道があることを信じ、そのことに人生をかけて信仰の道へと踏み出しているのです。そもそも出会いというのは、このようなものなのでしょう。
 弟子たちは、イエスから言葉を掛けられた時、網を捨て、あるいは舟と父親を残してイエスに従っています。イエスに従うということをこそ、第一として生き始めたのです。この後、弟子たちはイエスを十分理解できず、時に厳しくイエスから叱責されます。その都度、このイエスに従うということをこそ、第一とする原点に立ち返っていったのです。
 わたしたちはどうでしょうか。わたしたちがイエスから学ぶというときに、今の自分の立場をまず前提にしてそこから離れない範囲で受け止めようと留まっていはしまいか。鋭く問われます。聖書を読んでいると、今の自分の生き方を根底から揺さぶるような問いが迫ってくることがあります。あなたはそれでいいのか、と悔い改めを迫られる時があります。弟子たちは、網を捨て、父をおいて従いました。それに対して、私たちが揺さぶられ問われていると感じながらも、結局は自分の立場から離れないままである時、それはイエスに従うことのないままに終わっているということになっていまいます。
 かつてアメリカの南北戦争の時代、黒人解放に抵抗して奴隷制度を維持しようとしていた南部では、この奴隷制度を思想的に支えていたのはキリスト教会でした。これが神のもたらされた秩序だと主張していたのです。人間を家畜以下に扱いながらそのことに心を痛めることもなかったのです。南部は奴隷制度を前提にして農場経営がなされ、経済活動が支えられているという社会全体の構造がありました。その中で、人が神に似せて造られた尊い存在であるとの聖書の言葉は無視されていたのです。イエスが最も小さくされている人々との出会いの中で語られる言葉は聞き流されていたのです。イエスが最も小さくされている人々と共におられる姿から迫ってくる問いかけを受け流していたのです。
 最初の弟子たちは、網を捨て舟と父親とを残してイエスに従いました。それまでの生き方を支えていたものを離れて、イエスに従うことを第一とする生き方へと踏み出したのです。完全に漁師であることを止めてしまったわけではありません。時に舟を出すことがありました。時に漁をすることもありました。ただ何よりもイエスに従うことを第一とし続けたのです。

 イエスはこの弟子たちを連れてガリラヤ中を回って、教え、神の国の喜ばしい報せをもたらし、そしてあらゆる病気や患いをいやされました。イエスのもとを訪れてくる病人、あるいは苦しみを抱える者、悪霊に取り憑かれたと皆から遠ざけられている者、てんかんの者や、中風の者、そして今ここには登場しませんが、重い皮膚病のため家族からも離されて生活している者をイエスは大切にされました。
 弟子たちは、それまでの漁師としての生き方を第一とすることから離れたとはいえ、ものの受け止め方や人との関わり方などが劇的に変わったわけではなく、従来のままでした。イエスのもとに訪れてくる人々に対する、戸惑いや拒否反応もあったと考えられます。
 生まれつき目の見えない人を見かけて「この人が生まれつき目が見えないのはだれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問いかけるような偏見に囚われていました。
 この弟子たちの誤ったとらえ方に触れるたびに、イエスはこれを是正されました。この人が生まれつき目が見えないのは、誰かの罪の結果だというのではない。この人に神の栄光が顕れるためなのだ。この人の命は、神の器として用いられる尊いものだと迫られたのです。
 弟子たちがどんな否定的な気持ちを抱えながらであっても、そんな弟子たちを受け入れてくださるイエスのもとにあって学んだのです。自分たちの抱える否定的な気持ちを第一とせず、そこから離れてイエスがなされることから学んだのです。イエスが出会われる人々から学んだのです。

 世の中のもののとらえ方を離れて、イエスを通して示される神の愛を第一とする生き方へと呼び集められているのが教会です。
 弟子たちはイエスを完全には理解することができずに誤解し、誤った対応をすることが度々でした。その都度イエスから新たに学ぶのでした。わたしたち教会も、今なおイエスを十分理解しているとは言えず、誤解し、誤った歩みに進んでしまうことがあります。しかしその間違いに直面する度に、イエスから新たに学び、神の御心に沿った生き方へ歩み出すようにと、イエスから呼びかけられているのです。
 イエスの最初の弟子たちが、当時の神の教えについて学ぶ学者や熱心なファリサイ派の人々ではなく漁師であったというわけが、これら一連のことを見渡す中で見えてくるように思います。
 上野英信という筑豊に生きた牧師の書かれた『地の底の笑い話』という本が岩波新書から出ていますが、その扉に次のような鹿児島の諺が記されていることを、ある牧師が教えてくださいました。
「歌はむごにききやい 道めくらにききやい 理屈つんぼにききやい 丈夫なやちゃいいごっばっかい」
 不快語が用いられていますが、それが返ってこれらの人々への心から敬意を逆説的に表している内容です。むごとは話すことができない障がいをもった人々のこですが、声を出せない人々こそが本当の歌を知っている。目の見えない人こそが本当の道を知っている。耳の聞こえない人こそが、本当の理屈を知っている。それに比べて丈夫な者は口ばっかりで真実を知らないという意味です。
 漁師たちは自然の息吹を読み取りながら漁に出かけます。嵐にあう時には皆で協力して命がけでその艱難を乗り越えてきたのが漁師たちです。彼らは身体で神によって生かされている現実を知っている者の代表でした。頭でっかちになって、悩み苦しむ人間の困難な現実から離れた場所で、距離を置いて眺めている者ではありませんでした。
 その漁師が、網を捨て舟と父親とおいて、これらを第一とすることから離れてイエスに従い学びつつ歩んだのです。
 この漁師を弟子たとされたイエスが私たちに呼びかけられます。「私についてきないさい」と。
 このイエスに従う道に、豊かな命があるのです。たとえ十字架が迫ろうとも、それを克服する復活の命への道なのです。

「イエスの洗礼」森田喜之牧師

マタイによる福音書 3章13~17節

 先日、私は母を連れて森ノ宮にある成人病センターへ行きました。この病院は癌専門の総合病院です。ですから、患者への配慮は他の病院以上に求められる場所です。それで病院内は携帯電話は原則として禁じられています。公衆電話のそばか、自動販売機の近くに限って、使用が認められています。その日、母の診察が終わり、会計をするために窓口のそばに座っていました。すると隣に座っている男性が携帯電話で話し始めたのです。当然禁じられている場所です。隣ですから、話しの内容も聞こえてきます。
 「君ね、ボランティア活動をするなら、まずは英語をもっと勉強して、海外でも活動できるようにしなさい」と話しているのです。わたしは、人に迷惑をかけるようなことをしておいて、何を偉そうに言ってるんだと思いカチンときました。
 「ここは、携帯電話だめですよ」と私が言うと、チラッと見ただけで、わたしの注意を無視して話しを続けるのです。改めて「ここは携帯電話はだめですよ」というと、その人は立ちあがりながら「わかっとるわ、うるさいなぁ」と携帯を切って、後ろの座席に移動したのです。余計にカチンときて、もうひとこと言おうとした時に、会計の支払いの順番がきたので、わたしは仕方なく、会計の支払い窓口に行き、支払いを済ませました。母には薬の処方箋が出ていて、病院の外にある薬局に母に行ってもらい、私は駐車場に停めてある車を取りに行って、薬局の前で母を迎えるということを伝えました。
 母が病院から出て行ったのを見送り、ふと見ると先ほどの男性が支払いのため並んでいるのに気づきました。母のいる前では、言い争いになるかもしれないことは避けたかったのですが、幸い母は病院から外に出て行ったので、私は改めてその方に声をかけました。「さっき、何と言われましたか」。すると、その方は私に顔を近づけてきて「なんや、警察、呼ぼか」とすごまれます。わたしは構わずに、「携帯かける場所は配慮が必要でしょ」と言うと、「緊急の電話やったんや」と言います。わたしは、心の中であれは緊急ではないでしょ、と思いながら。「どういう事情があるかは別にして、すぐそこに携帯電話をかけられる場所があるんですから、そこに移動すればいいでしょ」と言うと、その人は「わたしは医者だぞ」と返されたのです。
 私は、これを聞いて余計にがっかりしました。医者なら、患者への配慮について病院が協力を求めているのになぜそれを無視するのか、と思いました。が、それは言わずに「場所を考えなさい」と言い残して、母を待たせるといけませんから、その場を離れ駐車場へ向かいました。                          この出来事は、あとあとまでいやな気分を残しましたが、同時に「私は医者だぞ」の一言に、私たち人間の抱える根深い罪の現実を感じてしまいました。

 間違いを指摘されても、それを素直に受け止めることができず、嘘の言い訳をしてしまう。自分の面目を保とうとして、そういうことになるのでしょうが、むしろかえって自分の面目を自らつぶしてしまっている。ほんとに恥ずかしいことなのに、本人はそのことに気付いていないのです。しかも、それが医者だという。「先生」と呼ばれる立場になると、余計にそのようになってしまう傾向がある、というのが残念です。私も先生と呼ばれることが多いので、自戒しなければならない出来事です。
 今読みました、マタイによる福音書3章。ここにバプテスマのヨハネが登場してきます。彼は、全ての人々に悔い改めを呼びかけて、ヨルダン川を舞台に、その水でバプテスマをさずけていました。彼は、らくだの毛皮でつくった衣を着て、革の帯を腰に締め、人里離れた荒野を住まいとしていました。荒野は、生きるために必要なものが簡単には手に入らない場所です。ヨハネは、神によって命を支えられるということに徹底して生きていました。食べ物は、イナゴと野蜜だけでした。ギリシアでは、紀元前7世紀から養蜂家がいたとの記録があるそうです。ですから、この聖書の時代には、野生のミツバチから蜜を手に入れる技術があったのです。 
 かつてエジプトで奴隷となったイスラエルの民が、そのエジプトを脱出し、荒野を旅した時のように。頼れるのは神のみの世界にヨハネは生きていたのです。そして、この神にのみ信頼する生活の中で研ぎ澄まされた感覚で、その時代の世界の本質を見抜き、悔い改めを呼びかけていたのです。
 元々、バプテスマは、外国人がユダヤ教徒となるために割礼を受ける前、清めのために行われていました。つまり、バプテスマを受けるのは伝統的には外国人だけでした。それを、ヨハネは全ての人々に迫ったのです。誰もが、神の前に罪深い存在であること、矛盾を抱え身勝手であることを認め、悔い改め、罪を告白してバプテスマを受けることを迫ったのです。
 ヨハネには、よほどカリスマがあったのか、神の都エルサレムからも、そしてユダヤ全土から人々がヨハネのもとに集まってきて、ヨハネから洗礼を受けたのです。ここに描かれるヨハネは厳格に信仰に生きる者の姿です。人々から尊敬を集めていました。ヨハネには弟子もいました。

 そこにイエスも来られたというのが、今日読んだマタイ福音書の箇所です。幼子イエスの記録が記されていたのが、2章までですから、マタイ福音書では公に活動を始める方として初めて登場する場面です。イエスの活動の原点とも言える場面です。人々が罪の告白をなし、ヨハネからバプテスマを受けていた、その中の一人としてイエスも並ぼうとされたのです。
 ヨハネは、自分の後に来られる救い主のことについて、「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」とまで言っていましたから、イエスがヨハネからバプテスマを受けたいと申し出られた時、「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、どうしてあなたがわたしのところに来られたのですか」とヨハネは応じました。このヨハネの躊躇を、私たちも当然そうだろうと感じます。
 ヨハネは、かなり抵抗しただろうと思うのですが、イエスは「私たちにとって正しいことをすることなのだ」と言われます。この「正しいこと」というのは、「神との関係において最も必要なこと」という意味です。神が求めておられること、それがイエスがバプテスマを受けるということなのだというのです。
 罪を告白する人々の中に、イエスが並ぶということが、神が求めておられることなのだというのです。ヨハネは、どうしてそんなことと、抵抗しました。私たちも、ヨハネが躊躇を覚えるのは当然だろうと感じます。
 しかし、ヨハネにしても、私たちにしても、この抵抗、この躊躇が実は曲者なのです。救い主は、その履物をお脱がせする値打ちも自分にはないと、たてまつるべきものとして私たちは理解してしまっているのです。そんな素晴らしい方にあやかって、私たちが救い主の素晴らしさの一部となりたいと、イエスを思い描き賛美するのです。
 上を見上げて、今いるところより、より高い場所に上りたいと、私たちはいつの間にか思い描いてしまうのです。そんな私たちに、イエスは逆の方向へと目を向けさせられるのです。罪を告白し、悔い改めて生きることこそが、信仰生活の原点なのだと。世の中は、上を目指し、競争に勝ち抜き、立派になることこそ、人生の目標であり、幸せの基準であるかのように動いています。そのためには、時には手段を選ばず、手に入れた富や社会的地位にしがみついて、そこに留まろうとするのです。間違いを指摘されても、言葉を尽くして誤魔化そうとします。
 しかし、それはなんと不自由なことでしょうか。ありのままの自分を認めることができないのです。自分の弱さを隠そうとして誤魔化し続けるのです。なんと疲れることでしょうか。
 完全な者は一人もいません。誤りを犯さずに生きることができる人は一人もいません。私たちは、人間関係の中で葛藤を抱え、時にぶつかり合います。古代から、現在に至るまで、誤りを犯さなかった国や民族というのは存在しません。
 であるにも関わらず、自分の間違いを認めてしまうと、全ては瓦解するかのように、頑固に自分の正しさを主張し、結果的に惨めな姿をさらけ出していまうのです。

 そんな私たちの前で、イエスは命の原点に立ち返るように、今迫られるのです。ヨハネから洗礼を受けられることを求められるのです。罪を告白する者たちの列に並ばれるのです。自分で自分の正しさを主張して、心を頑なに閉ざすのではなく、神の前に率直に罪を告白するところに、わたしは一緒にいるとイエスは言われるのです。過去の歴史の誤りを謙虚に認め、悔い改めにふさわしい在り方を求め始める時に、神はその国の歩みを祝福されるのです。
 イエスがヨハネからバプテスマを受けられ、水から上がられると、天がイエスに向かって開いた、とあります。天は、神がおられるところという意味です。ヨハネからバプテスマを受けられ、罪の告白をする者たちに並ばれるイエスこそが、神の御心を表す方であることが示されたのです。
 温かく私たちを受け入れ、ありのままの私たち、多くの問題を抱えたままの私たちと共にいてくださるイエスに支えられて、私たちは罪の告白をしつつ生きる者でありたいと思います。
 私たちは懸命に確かに生きてきたつもりではあっても、それでも矛盾を抱え、限界をもって生きていることを認め、神の導きに委ねるものでありたい。そこにこそ、真の平安がもたらされる。そのことを感謝して受け取りたいと思います。

「難民となったイエス」 森田喜之牧師

マタイによる福音書 2章13~23節

 今日、わたしたちは多くの課題をかかえて、2017年を迎えました。神に生かされている者として、信仰に生きる者として、その姿勢を糺し、感謝と希望をもってこの一年を歩み出したいと思います。
 しかし、そんな思いのわたしたちにとって、今日の聖書の言葉は、重く悲しい出来事を報告しています。この聖書を通して神は何をわたしたちに語りかけようとしておられるのでしょうか。
 幼子イエスの誕生を祝って、外国の占星術の学者たちはやってきましたが、彼らには、ヘロデ王からの要請、願いが託されていました。ヘロデ王は、権力の座への執着が異常なほど強く、その座を脅かしかねない存在は、たとえ家族であっても殺害してしまう冷酷な王でした。
 そんなことを知らない外国の学者たちは、ユダヤ人の王として生まれた方は、どこにおられるのかと尋ねて、王宮までやって来たのです。ユダヤ人の王として生まれた方であれば、当然、王宮で分かると考えたのでしょうが、それが裏目に出ます。
 ヘロデ王は、残虐な計画を裏に隠しながら、学者たちに要請します。
 「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかった知らせてくれ。わたしも行って  拝もう」と。
 さて、幼子イエスを探し当てた学者たちは、ひれ伏して拝み、自分たちの仕事にとって掛け替えのない道具である、黄金、もつ薬、乳香を献げます。その彼らが、神から「ヘロデ王のところへ帰るな 」と示され、別の道を通って帰って行きます。
 ヘロデ王の要請に従うことよりも、神から示された事を学者たちは優先させたのです。わたしたちが、単なる物語としてこの出来事を読んでいる間は、自分のこととして迫ってきはしません。
 この出来事を、わたしたちの時代のこととしてとらえ直す必要があります。王の要請、それは現在の社会に置き換えていえば、国の要請するところと言えます。学者たちは、国が求めることを拒絶して、神が示された道を歩んだのです。そのことが、幼子イエスの命を守ることとなったのです。

 幼子イエスは、大変危険な立場に置かれていました。たとえ学者たちの報告は得られなかったとしても、ユダヤ人の王として産まれた者が、どの辺りに産まれたのかという情報をヘロデ王は把握していました。その後の展開が、今日読んだ聖書の内容です。
 主の天使が幼子イエスの母マリアの夫ヨセフに告げます。「ヘロデがこの子を探し出し殺そうとしている。」「危険を避けるため、エジプトまで、この子と母親を連れて逃げなさい。」
 彼らにとってエジプトに逃げるということ、それもなんら準備のできないままに、急いで逃げなければならなかったということ、それがどれほど辛いことであったか。
 今、生活している場所が突然危険な状態になり離れなければならなかった人々。現代もそのような人々の苦しみが続いています。シリア難民がどれほど困難な状態でそれまでの生活の場から逃げているのかを、わたしたちは報道により知っています。
 国外だけでなく、日本においても同様の困難を抱えている人々がおられます。福島第一原発の事故で放射能に汚染され、故郷に住めなくなった多くの人々がおられます。
 それまでの仕事も避難先では続けられなくなります。隣近所と共に作り上げてきた地域の繋がりからも、ばらばらに引き離されてしまいました。もとの生活を取り戻すことはもはや不可能です。不安定な状態を、少しでも改善しようと努力している最中に、国からの補償が突然取りやめになると通告されます。
 避難先で、新しい人間関係をつくり生きようとしている人びとに心ない言葉の暴力が襲います。子どもが避難して通い始めた学校で、バイ菌と呼ばれ傷つけられ、教師からも同様に呼ばれて、学校に行けなくなったという報道が私たちの心を痛めました。それだけでなく、大人の社会の中にも、バイ菌という言葉の暴力、地域から排除する力が避難生活する人々を襲っているという事実に、私たちは衝撃を受けました。
 国内避難民となって生活する人々は、元の生活の場所では命の危険があります。しかし、避難した先にも平安があるわけではありません。これが、罪深い私たち人間の作り上げる冷酷な現実なのです。
 幼子イエスと母マリアを連れてエジプトへ逃れたヨセフですが、避難したからといって、それで安心とはいえない状況に置かれるのです。

 幼子イエスが無事逃れた後も、ヘロデ王の政治的暴力の嵐がベツレヘムの人々を襲います。ヘロデ王の権力の座を脅かす、ユダヤ人の王として産まれた方が、少なくともベツレヘムという場所に産まれたとの情報をヘロデ王は持っていました。その幼子を亡き者にしようと、ヘロデ王はベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺害してしまうのです。
 2000年を経た現代も、戦闘の犠牲者の多くが幼い子どもたちです。そして、戦闘という直接的な暴力でなくとも、国の政策のまずさがもたらす子どもの貧困が、子どもたちの成長の希望や喜びを奪ってしまっている現実があります。
 こんなにも重く、悲しい出来事が、クリスマスの出来事として聖書に記され、そして、私たちの今の現実にも重なってくるのです。

 ところが、その出来事を記す聖書には、単に重く悲しいだけではない言葉が繰り返されているのです。「預言者を通して言われていたことが実現する」という意味の言葉が、それぞれ独自の表現で3回も繰り返されているのです。
 人間は多くの悲惨を昔も今も生み出してしまってます。しかし、神はその悲惨のただ中に神の御心を成し遂げられるのです。命を育み、支える希望を粘り強くもたらそうとされるのです。                 
 一つ目の預言者の言葉は、15節です。幼子イエスと母マリア、そしてヨセフがエジプトへ逃れた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と預言者を通して神が言われていたことが実現するためであった。
 これは、ホセア書11章1節の「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、我が子とした」の引用です。エジプトで奴隷の苦しみにあえいでいたイスラエルの人々を、神が救い出された事を振り返っているのです。モーセを指導者として神がたてられて、イスラエルの人々をエジプトから脱出させられました。神は、恵みをもってエジプト脱出を実現したのです。出エジプト記に記されている内容です。
 神は、このようにして、イスラエルの民を愛された。ところが、そうであるにもかかわらず、とホセアの預言は続きます。今読んだホセア書11章1節の続き、2節にはこう記されています。「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らは去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた」。神は、幼いイスラエルを愛しエジプトからの脱出を果たさせたのに、彼らは神から離れてしまった。
 神がもたらされた出エジプトは決定的な救いとはならず、民はなお迷うこととなってしまった、とホセアの預言は語るのです。これを受けてマタイ福音書は、このホセアの預言はイエスにおいて実現するのだと言うのです。イエスがエジプトから呼び出される事によって、神がなそうとされた救いが本当の意味でイエスにおいて実現するのだと語るのです。
 さて二つ目の預言、17節では、実現するためであったとは表現されません。むしろ、神の御心を無視して人間が犯す残虐行為が繰り返されてしまっていると語ります。「こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから』」。
 預言者エレミヤの時代にあった嘆きは、今も続いているとマタイ福音書は語るのです。ただエレミヤ書には、更に次のように預言が続くのです。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」
 人間の暴虐がもたらす悲痛な叫びは、今も絶えません。しかし、神はそのままで放置されはしない、神はその苦しみに必ず報いて、希望をもたらされるのだと語るのです。17節の引用は、このエレミヤの慰めの預言を暗示します。イエスにおいて、預言は実現し、神のなそうとされてきたことが、この世界にもたらされるのだと告げるのです。
 さてヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて語ります。「起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。」これに従って、ヨセフは幼子とその母を連れて、イスラエルに地に帰ってきた、と記されています。
 実は、今日、一番注目したい箇所です。神は、ヨセフに夢の中で、イスラエルの地に帰りなさい、とは言われず、行きなさいと言われました。まずは、このことに注目しておきます。神から告げられたことを聞いたヨセフは、今わたしたちの聖書では「帰って来た」となっています。しかし、これはもとの場所に戻るから「帰って来た」と解釈して翻訳されているのです。言葉通りには、「イスラエルの地に入って行った」なのです。
 どこかに出かけて帰ってきて、「ただいま」「おかえり」というようなお気軽な事柄ではないのです。幼子イエスを連れたヨセフとマリアたちは、エジプトへ避難したからといって、安定した生活が保証されるわけではなかったということを現代と重ねあわせながら先ほど確認しました。
 ただ、たとえそうであっても、生活を続ける中に、生活の場がそれなりにできあがっていきます。いろいろ問題が残されているとしても、その場であればこその生活の支えと感じ取れるものができてきます。
 そこを離れて、再びイスラエルに向かうというのは、どこかに旅行してきて帰るというのとは、全く事情が違うのです。イスラエルに行ったら、その先で改めて生活を立て直さなければなりません。しかも、死んだヘロデ王の3人の息子の中では最も冷酷なアルケラオが、元生活していたユダヤの地を支配していました。そのため、ヨセフたちは、北の外れのガリラヤで生活を立て直すこととなるのです。
 この家族は、命の危険から逃れるためにエジプトへと向かいました。エジプトの保護に頼ったのです。簡単なことではありませんでした。それでもエジプトには命を守るものがったのです。
 今、再び、エジプトを出ることを求められました。今いる場所エジプトにも、またこれから向かうイスラエルにも、困難があるのであれば、それなりに生活を作り上げている今の場所に留まったほうが無難とも思えます。
 しかし、この家族には、エジプトを再び出ることで、神がもたらされる救いを実現する道をたどるよう示されたのです。彼らがたどったのは、今の生活を支えている現状に頼り、そこに安住するのではなく、神が示される道を歩むということでした。
 神は、世界のあらゆる力をも用いながら、たとえばエジプトを用いながら、この家族を守られました。この世界の力が、つまり逃れていった先のエジプトが彼らを守ったのではありません。神が彼らに危険を知らせ、エジプトに逃れさせたのです。神が、彼らを、それなりに作り上げていた生活の場から離れさせ、出エジプトを実現させたのです。
 神によって導かれたヨセフが、母マリアと幼子イエスを守り、その命を育みました。神こそが、幼子イエスを守り支えられたのです。神が守り支えられた、この幼子イエスこそ中心です。
 三つ目の「預言者たちを通していわれていたことが実現した」とある「彼はナザレの人と呼ばれる」についてですが、実は、この言葉は預言者の言葉には見あたらないのです。しかし、旧約聖書の中に神に特別の誓願をたてて献身したナジル人というのが登場してきます。この特別に神に献身したナジルびと。イエスこそ、まさにそのナジル人だとの語呂合わせで、23節は記されていると考えられています。このイエスこそ神に徹底して献身した者なのです。幼子イエスこそ中心です。
 この幼子イエスと共に生きる母マリアとヨセフに神は守りと導きを与えられたのです。ラマで激しく嘆き悲しむ声が響く、その悲惨な現実の中で、最も弱い存在である幼子イエスと共にいる母マリアとヨセフが、神から呼びかけを受け、その生きている生活の枠を越えて歩み出すよう働きかけられたのです。
 神の導きに信頼し、委ね、とりあえずの安定に執着することなく、留まることなく、神の呼びかけに応えて歩み出す中に、命の道があったのです。
 私たちの生きる世界には、そして日本の社会の中には悲痛な叫びがこだましています。その現実から目をそらして、今の生活そのままに留まることもできます。神からの呼びかけに耳を閉ざして、取りあえずの生活の安定をもたらしているエジプトに留まり続けることもできます。
 しかし、神は私たちに呼びかけられるのです。エジプトを出なさいと。はたしてどうなるのかとの不安があります。向かうイスラエルには、なお危険があります。しかし、神が支え導いてくださるのです。
 ここに私たちへの呼びかけがあります。私たちには、今作り上げている生活の場があります。隣近所との繋がりを大切にして私たちは生きています。それは極日常的なことで、大切なことです。しかし、その安住している世界に、ラマで聞こえたような激しく嘆き悲しむ声がこだまするのです。
 幼子イエスと共に生きることに、私たちの命の支えを見出す信仰に生きる私たちは、今生きているこの日本の社会の中で、そしてこの世界の中で、神の御心が何であるのか、真実を尋ね求めながら、神の呼びかけにこそ応えて生きていきたいと願います。
 そこに導きがあるのです。預言者エレミヤの言葉に改めて聞きたいと思います。
 「ラマで声が聞こえた。激しく歎き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、 慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。」「主は言われる。泣きや むがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われ る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」