2016年4月7日木曜日

「キリストの復活」 森田喜之 牧師

ヨハネによる福音書20章1〜18節
 イースターおめでとうございます。イエス・キリストの復活、私たちにとっては理解を超えた驚くべき出来事です。天地創造の神が、私たちの間にもたらされた前代未聞のこの新しい出来事を、私たちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。
 今日マリアが体験したことを通して示されることを、私たちも追体験し、そこから示される導きを深く味わいたいと思います。
 晴れた日の夜明け、太陽がまだ顔をのぞかせる前、地平線に陽の光がにじんだように広がるのをご覧になったことがあるでしょうか。天上にはまだ一部の星が点在して見えるような夜の名残があります。マリアはそんな日曜日の夜明けに、冷たく澄んだ空気の中をイエスの葬られた墓に向かいました。この風景がそのままマリアの心を映しているように思えます。
 マリアはいろいろと思い巡らしていたでしょう。イエスが語られた言葉1つひとつが、それまで聞いたことがないような新しい響きをもっていました。イエスと出会ったことで、生きる喜びに新しく満たされる人びとの姿を見てきました。それは周りのの冷たい視線と蔑むような扱いに、深く傷つき人生を諦めていたような人びとが新しい人生に踏み出していく奇跡でした。1人ひとりが神に愛され、支えられて生きているものなのだということを、マリアはイエスを通して深く知らされてきました。
 また、自分は立派に生きていると偉そうにし、周りの人たちを蔑み、冷たくあしらっている人が、イエスの前でその鼻をへし折られている場面にも遭遇してきました。そのため、イスラエルの長い伝統の上に立って権威を振りかざす人びとが、イエスを捕らえて亡き者にしようと影でうごめいている暗い不穏な空気に恐怖しながら過ごすことにもなりました。
 イエスと共にいることで与えられる喜びを感謝しながらも、イエスに敵意を抱く人びとの只中へと進んで行かれるイエスに戸惑い、不安を抱いてきました。空を覆う黒雲がその濃さを増し、突然嵐が吹きあれるのに似て、最後の数日は恐怖と悲しみで胸が押しつぶされそうでした。
 それらすべてが過ぎ去り、深い悲しみの中にも、せめてもの慰めは、イエスの亡骸を無事に葬ることができたということでした。
 死は悲しくはあっても、恐怖で胸がつぶれそうになるのを耐えながら嵐の中をくぐっているかのような辛さからは、今は解放されています。イエスの声を聞くことはもはやできない代わりに、イエスを罠にはめようと近づいてくる人びとの悪意に満ちた言葉に心がひき裂かれることもなくなりました。イエスが病人を癒され、力づけられるその姿に触れることができなくなった代わりに、その喜ばしい奇跡の周辺で起こる非難の声を聞かなくて済みます。
 今は葬られた主イエスの墓のそばで、ありし日を偲び、静かに過ごすことを慰めとしていけます。マリアは早朝の空気に包まれながらイエスの墓に向かいました。

 ところが、そのマリアの目にとんでもない風景が飛び込んできました。墓にたどりついたマリアは、静かにイエスを偲ぶことなど許されませんでした。墓は空だったのです。納められたはずのイエスの亡骸が、そこになかったのです。マリアがどれほど思いを込めて、主イエスの亡骸を探し求めたことか。ただここで注意したいのは、探し求めていたのはあくまでイエスの亡骸だったということです。
 「主が取り去られました。どこに置かれているかわかりません。」ということをペトロたち、また天使たち、そして復活のイエスを園丁と勘違いして、それぞれに言葉を換えてマリアは語っています。イエスに会いたいのに会えないという嘆きではなく、イエスがどこに置かれているか分からないという嘆きなのです。
 マリアは、生きて働いておられた時のイエスを探し求めたのではなく、あくまでその働きの全てから解放され死したイエスの亡骸を探し求めていたのです。当然です。イエスは亡くなられたのですから。そのイエスが与えてくれた喜び、希望を振り返り、静かに偲ぶことをマリアは求めていました。それなのに墓には納めたはずのイエスの亡骸がなくなってしまったのです。マリアは泣きながら探しました。墓の中をのぞき込みながら、墓の奥の死の向こうにおられるイエスを探していました。

 しかし、イエスは死の向こうの静かな世界にはおられませんでした。天使たちの「なぜ、泣いているのか」の問いに「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません」と答えて後ろを振り向いた時、そこに復活の主イエスが立っておられる姿が目に映りました。
 墓の奥、死の向こうではなく、マリアが振り向いた後ろ、死の反対の方向、人びとが生きている世界に立つイエスの姿が見に入ったのです。マリアが振り向いた世界は、イエスが生きて働いておられたところであり、同時にイエスに敵対する者たちも存在する世界です。
 マリアは、死の向こうに死したイエスを静かに偲ぼうと探していましたから、マリアの後ろに立つその方をイエスだと気づくことはできませんでした。園丁だと思い込んで言った言葉には、重要な含みがあります。
 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら」とマリアは言いました。
 墓から亡骸を運び去るということなど、普通ではありえないことです。しかし、イエスに敵意を抱く者たちなら、その異様なことをこの園丁に依頼してもおかしくはない。イエスを不当にも十字架にかけて処刑した者たちだから、と考えたのかもしれません。
 イエスを十字架に掛けた者たちが、活発に動いているとマリアも感じている世界にイエスは立っておられるのです。静かにイエスの語られた言葉を振り返り、イエスのなさった業を心に刻もうと、死の向こうにおられるイエスを求めるマリアに対して、イエスは敵対する者たちもいる今生きる世界へと呼び戻されるのです、「マリア」と。
 イエスが共に生き、歩んだ中で、繰り返し呼びかけられた懐かしくも活き活きとした声で「マリア」と呼びかけられます。マリアははっとするように「ラボニ  先生」と答えます。墓の向こうの死の世界に向かってではなく、その反対の生きているものの世界に振り向いて、懐かしさに心が震えるような思いで、「ラボニ」と答えたのです。

 マリアが墓の奥をのぞいて静かにイエスを偲ぼうとした世界と、マリアが振り向いて、生けるイエス・キリストに応えた世界とは対照的です。
 死は誰にも等しく訪れます。しかも、生きていた時手に入れた財産も地位も、誉れも、死の向こうへ持って行くことはできません。誰もが死においては等しく裸になるのです。また、色々な対立も格差も死にのみ込まれ、解消されてしまいます。
 マリアは、全てがこのように解消されてしまった中で、全ての喧噪から離れてイエスを思い起こし、深い感動と慰めのうちに過ごそうと、墓までやってきました。マリアが墓に向かう中で思い描いていたことは、私たちが信仰の平安として思い描くことに近いものかもしれません。
 今生きているこの世界が抱える社会的不公平、不正義、政治的課題の中で、その現実から離れて、静かにイエスと共にあることを求め、信仰による平安を求めてはいないか。しかし、イエスはそこにはおられませんでした。マリアにイエスが再び出会われ「マリア」「ラボニ」と深い交流を再び体験することができた世界は、死の向こうではなく、苦しみ、悩みを抱えた人びとにイエスが出会われ共に歩まれたこの世界です。
 イエスが出会われたのは、排除されていた外国人でありました。イエスが大切にされたのは、後回しにされていた女性たちでした。イエスが手を伸ばして触れ、共に食事をされたのは、病気や仕事を理由に不利な立場に置かれている人びとでした。
 心傷つき、追い詰められた生活を抱えた多くの人びとの存在を知りつつ、むしろその現実に安住していた当時の宗教的指導者や、これに追従する人びとは、イエスの振る舞いに不安を覚え、反発し、十字架に掛けたのです。
 その世界へと、イエスはマリアを再び呼び戻されました。痛められ、苦しめられる人びととこれを無視する人びとが存在するこの現実の世界へイエスはマリアを呼び戻し、そこで改めて出会われたのです。多くの矛盾を抱えた現実の中で出会ってくださる、この復活のイエスこそ、父なる神と一体となって私たちを導いてくださる方なのだということを、マリアは知らされたのです。
 「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と語られたのは、墓の奥、死の向こうではなく、その反対側、この世界に立ち共に歩んでくださる復活のイエスです。
 私たちの世界に、主の十字架は今も立てられています。不当な扱いや、差別に苦しむ人びとの中に、十字架の主イエスは共におられます。そして、その只中に神の祝福、復活の命がもたらされるのです。全ての望みが断たれたとしか思えない、悲惨な現実の中に、神は死にすら勝利された方として、この世の闇と対峙される続けるのです。そして、私たちに呼びかけられるのです、光の子らしく歩みなさいと。
 神が、現在の十字架の立つ場所に私たちを導き、復活の喜びを分かち合う仲間に加えてくださるように祈りましょう。
(2016年3月27日)

2016年3月18日金曜日

「分かったつもりでいる罪」 森田喜之 牧師

ヨハネによる福音書9章35〜41節
  私たちは一人では生きていけません。たとえ周りに人がいたとしても、その周りの人との間に心の通い合う温もりが感じられない時、だれも周りにいない寂しさとは意味の違う、より深い孤独感にとらわれ、苦しみは増してしまいます。
 「ホームレス」支援の取組を続けている北九州の奥田牧師が「ホームレスはハウスレスとは言わない」と言って、その意味を説明されました。ホームレスについて単に住む家がなく野宿している人々のことだと誤解されている。しかし、単に住む家がないのであればハウスレスと言えばよいのに、そうは言わない。ホームという言葉は、アットホームなどという言葉からも分かるように、人と人との繋がりを含んだ言葉である。ホームレスというのは、人との繋がりが切れてしまっている状態をさしている。だから辛いのである。その意味では、家族と一緒に生活しながらも繋がりが切れてしまったような家庭内にいながらのホームレスの状態の場合もある。ホームレスの克服は、単に住む場所の確保だけではなく、人との繋がりの回復が何より必要である。
 このように説明されたのを聞いたとき、私ははっとさせられました。とても大切なことに気づかされました。
 今読んだ聖書に、外に追い出された人にイエスが出会われたと記されていました。今、追い出されたと書かれてはいますが、この人は元々から人との温もりのある心の交流から排除されている人でした。この人の物語は9章の1節から始まっています。
 先週の礼拝でも取りあげましたが、生まれつき目の見えなかった人、それが、この外に追いだされた人です。今、追いだされたということは、この物語の始まる時には、人々の中に居場所はあったということです。ただ居場所はあったとしても、弟子たちの言葉が、この盲人の置かれていた厳しい状況を象徴的に物語っています。
 弟子たちはイエスに尋ねます、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。人間というのは、なん残酷なのかと思ってしまいます。人が不幸な状態に置かれているのを見ると、その人の命の価値まで低く評価し、突き放してしまうのです。ホームレスの状態にある人を見ると、生活態度が悪いからだとか、人間としての質が悪いからだと言って、一方的にその価値を低く評価してしまう社会があります。
 不幸な状態であるだけでも辛いのに、更に人から見下され、突き放される苦しみをなぜ人はもたらそうとするのでしょう。私たちの持つ身勝手さ、自己中心的な罪深さを思わざるをえません。
 今弟子たちは、生まれつき目が見えないという苦しみを抱えている人は、本人または両親の罪に対する報いだと考え、いったい誰の罪なのかと問いました。罪の故に目が見えなくなったとマイナスの評価をくだしています。
 苦しみを抱えた人生はあってはならない人生。神さまの祝福に満たされた人生ならば、苦しみなど一切ないはず。そのような先入観でこの人を見ています。同じ先入観を私たちも抱えています。
 しかし、イエスは違う評価をします。イエスはお答えになった「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 生まれつき見えないのは、神の業が現れる器として用いられるためである、と言われました。この人は神さまに用いられる大切な命なんだ。生まれつき目が見えないということこそ、大切なんだと、それまでの人々の価値観を全く逆転させてしまうことを言われました。

 この生まれつきの盲人は、弟子たちの毒のある言葉なら、何度も耳にしてきたものでしょう。しかし、イエスの言葉は全く知ることのなかった新しい世界への扉を開く力強い言葉として響いたのではないでしょうか。自分という存在が始めて包み込まれる温もりを、イエスの声に感じたのではないでしょうか。
 今までは、人々から厄介者のように扱われてきました。しかし、今イエスによって、あなたは大切な存在なのだ、あなたを神さまが必要としておられると呼び出されたのです。
「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」。なんと不衛生的なことをするんやと感じるかもしれません。しかし、わたしは子どもの時、遊んでいて傷つくと唾を塗ることがよくありました。イエスのなさったことは当時の民間療法だったと考えられます。
 彼は、イエスに言われた通り、シロアムの池で眼を洗います。するとそこに初めての世界が広がります。目が見えるようになった。生まれつき目が見えませんでしたから、今までみたことのない世界を見ることになりました。
 この出来事は象徴的な意味を併せ持っているように思えます。彼は、ずっと周りから否定的に見られてきました。彼は生き延びるために物乞いをすることが精一杯でした。ところがイエスと出会い、人がどのように評価しているかとは別の彼を大切な存在として見守る眼差しが注がれていることを知ったのです。
 神さまはあなたを必要とされているのだと、心に響く呼びかけを聞いたのです。あなたによって神の業が現れるのだという言葉は、それまで見たことのなかった新しい世界を彼の前に広げたのです。

 今や、生まれつき目が見えなかったこの人は、これまでとは違う世界へと一歩踏み出しました。どれほどの感動が彼の身体を駆け巡ったでしょうか。             しかし、神によって生かされる新しい命に生き始めた彼と違って、彼を受け止める周りは、誰も彼に「良かったな」と声をかけません。誰も彼と喜びを共有しません。人々は、目が見えるようになった彼には関心を示さず、彼が目が見えるようになったという出来事のほうに関心を示します。
 なんという孤独でしょうか。更に彼は追い詰められていきます。目が見えるようになったのは、安息日のことでした。安息日は十戒の中でこう定められています。
「安息日を守って聖別せよ。いかなる仕事もしてはならない」。土をこねるという作業、それは仕事だと判断されていました。だから、律法を厳格に守り生活することを大切にしているファリサイ派の人々は、このことでイエスを非難しました。「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」。
 それは、イエスの語られた神の業が現れるためだという言葉を覆す言葉です。イエスの他誰も見せてくれなかった世界を、それは嘘だと言いがかりをつける言葉でした。更に、彼の両親にファリサイ派の人々がことの次第を確認しにいくと、両親までもが彼のことを突き放してしまいます。
「わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」。両親がこう言ったのは、ことの次第を追求してやまないユダヤ人たちを恐れていたからでした。

 ところで、興味深いのは、元盲人であった彼の変化です。イエスと出会うまで、彼は生まれつき目が見えないという現実の中で、人々からの、「誰かの罪の結果の命」という言葉を浴びながら過ごすだけでした。
 しかし、イエスと出会い、イエスから「あなたは神に必要とされている。あなたによって神の業が表される。あなたは神の器なのだ」と語り掛けられました。今まで見たことのない世界を見る者へと変えられたのです。
 最初、彼はイエスが自分にしてくれたことを問われるままに説明するだけでした。「イエスという方が土をこねてわたしの目に塗り『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」。
 それがファリサイ派の人々がイエスのことを非難して「その人は神のもとから来た者ではない」と言うのを聞いてと反論に出ます。「どうして罪のある人間が、こんな印を行うことができるるだろうか」と。
 イエスとの出会いを通して今味わっている喜びは、誰が否定しようとも消せない。ファリサイ派の人々が「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのか知らない」と捨て台詞のように言うと、ついにはファリサイ派の人々の逃げ口上をとらえて放さず批判します。
 「あの方がどこから来られたのか、あなたがたがご存じないといは実に不思議です。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。
 元盲人は、以前のように一方的に存在価値を否定されて終わってはいませんでした。神に必要とされている一人として立ち、周りの人々から何を言われても自分が知り得た神の愛に生きる者として証しし続けたのです。
 その結果、追いだされました。今日、外に追いだされたと聖書に書かれていたのは、会堂の外に追いだされたということでした。会堂というのは、ユダヤ人たちの共同体の中で精神的なよりどころであり、地域生活のセンターのような場所です。その外に追いだされたということは、深刻な意味を持ちます。共同体の外に追いだされたのです。
 この彼にイエスが再び出会われたのです。そして問いかけられます。「あなたは、神様の救いをもたらす方を信じるか」。これに対して彼は「私はその方を信じたい」と応えます。今まさに神様によって立ちあがらされた喜びの中にいます。共同体の外に追いだされたとしても、神が彼を必要と知らされたのです。
 今、新しい世界に生きる導きを与えてくださった目の前のイエスこそが救いをもたらす方だと知ると、彼は全信頼をもって信仰の告白をします、「主よ、信じます」。イエスはこのようにして私たちを、神に必要とされている一人として呼び出され、力づけてくださるのです。
 
 しかし、私たちは弟子たちのように、人の命を身勝手な価値基準で低く評価し、切り捨てていく罪を同時に抱えています。ファリサイ派の人々は「私は分かっている」と言って、元盲人の喜びを否定し、新しい命への歩みを阻もうとしたのです。
 私たちは、イエスによって導き出されています。この世がマイナスに評価する価値観から離れるように。「誰一人として必要とされていない者はいない」というイエスの呼びかけに応えるようにと。
 私たちは、様々な生活状況を抱えています。野宿せざるを得ない状態にまで追い詰められる人々もいます。精神的な病の故に、人との関係がうまく保てない人々もいます。追い詰められた中、自暴自棄になり犯罪を犯し刑に服した人々もいます。
 それらの一人ひとりにイエスは呼びかけられるのです「神の業がこの人にあらわれるためである」。私たちは、そのイエスの言葉の前に謙虚でありたいと願います。そして、それらの人々との出会いの中で、この主イエスによって与えられる「自分が必要とされている喜び」を分かち合う者となることができるよう導きを祈ります。
(2016年2月21日)