イースターおめでとうございます。イエス・キリストの復活、私たちにとっては理解を超えた驚くべき出来事です。天地創造の神が、私たちの間にもたらされた前代未聞のこの新しい出来事を、私たちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。
今日マリアが体験したことを通して示されることを、私たちも追体験し、そこから示される導きを深く味わいたいと思います。
晴れた日の夜明け、太陽がまだ顔をのぞかせる前、地平線に陽の光がにじんだように広がるのをご覧になったことがあるでしょうか。天上にはまだ一部の星が点在して見えるような夜の名残があります。マリアはそんな日曜日の夜明けに、冷たく澄んだ空気の中をイエスの葬られた墓に向かいました。この風景がそのままマリアの心を映しているように思えます。
マリアはいろいろと思い巡らしていたでしょう。イエスが語られた言葉1つひとつが、それまで聞いたことがないような新しい響きをもっていました。イエスと出会ったことで、生きる喜びに新しく満たされる人びとの姿を見てきました。それは周りのの冷たい視線と蔑むような扱いに、深く傷つき人生を諦めていたような人びとが新しい人生に踏み出していく奇跡でした。1人ひとりが神に愛され、支えられて生きているものなのだということを、マリアはイエスを通して深く知らされてきました。
また、自分は立派に生きていると偉そうにし、周りの人たちを蔑み、冷たくあしらっている人が、イエスの前でその鼻をへし折られている場面にも遭遇してきました。そのため、イスラエルの長い伝統の上に立って権威を振りかざす人びとが、イエスを捕らえて亡き者にしようと影でうごめいている暗い不穏な空気に恐怖しながら過ごすことにもなりました。
イエスと共にいることで与えられる喜びを感謝しながらも、イエスに敵意を抱く人びとの只中へと進んで行かれるイエスに戸惑い、不安を抱いてきました。空を覆う黒雲がその濃さを増し、突然嵐が吹きあれるのに似て、最後の数日は恐怖と悲しみで胸が押しつぶされそうでした。
それらすべてが過ぎ去り、深い悲しみの中にも、せめてもの慰めは、イエスの亡骸を無事に葬ることができたということでした。
死は悲しくはあっても、恐怖で胸がつぶれそうになるのを耐えながら嵐の中をくぐっているかのような辛さからは、今は解放されています。イエスの声を聞くことはもはやできない代わりに、イエスを罠にはめようと近づいてくる人びとの悪意に満ちた言葉に心がひき裂かれることもなくなりました。イエスが病人を癒され、力づけられるその姿に触れることができなくなった代わりに、その喜ばしい奇跡の周辺で起こる非難の声を聞かなくて済みます。
今は葬られた主イエスの墓のそばで、ありし日を偲び、静かに過ごすことを慰めとしていけます。マリアは早朝の空気に包まれながらイエスの墓に向かいました。
ところが、そのマリアの目にとんでもない風景が飛び込んできました。墓にたどりついたマリアは、静かにイエスを偲ぶことなど許されませんでした。墓は空だったのです。納められたはずのイエスの亡骸が、そこになかったのです。マリアがどれほど思いを込めて、主イエスの亡骸を探し求めたことか。ただここで注意したいのは、探し求めていたのはあくまでイエスの亡骸だったということです。
「主が取り去られました。どこに置かれているかわかりません。」ということをペトロたち、また天使たち、そして復活のイエスを園丁と勘違いして、それぞれに言葉を換えてマリアは語っています。イエスに会いたいのに会えないという嘆きではなく、イエスがどこに置かれているか分からないという嘆きなのです。
マリアは、生きて働いておられた時のイエスを探し求めたのではなく、あくまでその働きの全てから解放され死したイエスの亡骸を探し求めていたのです。当然です。イエスは亡くなられたのですから。そのイエスが与えてくれた喜び、希望を振り返り、静かに偲ぶことをマリアは求めていました。それなのに墓には納めたはずのイエスの亡骸がなくなってしまったのです。マリアは泣きながら探しました。墓の中をのぞき込みながら、墓の奥の死の向こうにおられるイエスを探していました。
しかし、イエスは死の向こうの静かな世界にはおられませんでした。天使たちの「なぜ、泣いているのか」の問いに「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません」と答えて後ろを振り向いた時、そこに復活の主イエスが立っておられる姿が目に映りました。
墓の奥、死の向こうではなく、マリアが振り向いた後ろ、死の反対の方向、人びとが生きている世界に立つイエスの姿が見に入ったのです。マリアが振り向いた世界は、イエスが生きて働いておられたところであり、同時にイエスに敵対する者たちも存在する世界です。
マリアは、死の向こうに死したイエスを静かに偲ぼうと探していましたから、マリアの後ろに立つその方をイエスだと気づくことはできませんでした。園丁だと思い込んで言った言葉には、重要な含みがあります。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら」とマリアは言いました。
墓から亡骸を運び去るということなど、普通ではありえないことです。しかし、イエスに敵意を抱く者たちなら、その異様なことをこの園丁に依頼してもおかしくはない。イエスを不当にも十字架にかけて処刑した者たちだから、と考えたのかもしれません。
イエスを十字架に掛けた者たちが、活発に動いているとマリアも感じている世界にイエスは立っておられるのです。静かにイエスの語られた言葉を振り返り、イエスのなさった業を心に刻もうと、死の向こうにおられるイエスを求めるマリアに対して、イエスは敵対する者たちもいる今生きる世界へと呼び戻されるのです、「マリア」と。
イエスが共に生き、歩んだ中で、繰り返し呼びかけられた懐かしくも活き活きとした声で「マリア」と呼びかけられます。マリアははっとするように「ラボニ 先生」と答えます。墓の向こうの死の世界に向かってではなく、その反対の生きているものの世界に振り向いて、懐かしさに心が震えるような思いで、「ラボニ」と答えたのです。
マリアが墓の奥をのぞいて静かにイエスを偲ぼうとした世界と、マリアが振り向いて、生けるイエス・キリストに応えた世界とは対照的です。
死は誰にも等しく訪れます。しかも、生きていた時手に入れた財産も地位も、誉れも、死の向こうへ持って行くことはできません。誰もが死においては等しく裸になるのです。また、色々な対立も格差も死にのみ込まれ、解消されてしまいます。
マリアは、全てがこのように解消されてしまった中で、全ての喧噪から離れてイエスを思い起こし、深い感動と慰めのうちに過ごそうと、墓までやってきました。マリアが墓に向かう中で思い描いていたことは、私たちが信仰の平安として思い描くことに近いものかもしれません。
今生きているこの世界が抱える社会的不公平、不正義、政治的課題の中で、その現実から離れて、静かにイエスと共にあることを求め、信仰による平安を求めてはいないか。しかし、イエスはそこにはおられませんでした。マリアにイエスが再び出会われ「マリア」「ラボニ」と深い交流を再び体験することができた世界は、死の向こうではなく、苦しみ、悩みを抱えた人びとにイエスが出会われ共に歩まれたこの世界です。
イエスが出会われたのは、排除されていた外国人でありました。イエスが大切にされたのは、後回しにされていた女性たちでした。イエスが手を伸ばして触れ、共に食事をされたのは、病気や仕事を理由に不利な立場に置かれている人びとでした。
心傷つき、追い詰められた生活を抱えた多くの人びとの存在を知りつつ、むしろその現実に安住していた当時の宗教的指導者や、これに追従する人びとは、イエスの振る舞いに不安を覚え、反発し、十字架に掛けたのです。
その世界へと、イエスはマリアを再び呼び戻されました。痛められ、苦しめられる人びととこれを無視する人びとが存在するこの現実の世界へイエスはマリアを呼び戻し、そこで改めて出会われたのです。多くの矛盾を抱えた現実の中で出会ってくださる、この復活のイエスこそ、父なる神と一体となって私たちを導いてくださる方なのだということを、マリアは知らされたのです。
「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と語られたのは、墓の奥、死の向こうではなく、その反対側、この世界に立ち共に歩んでくださる復活のイエスです。
私たちの世界に、主の十字架は今も立てられています。不当な扱いや、差別に苦しむ人びとの中に、十字架の主イエスは共におられます。そして、その只中に神の祝福、復活の命がもたらされるのです。全ての望みが断たれたとしか思えない、悲惨な現実の中に、神は死にすら勝利された方として、この世の闇と対峙される続けるのです。そして、私たちに呼びかけられるのです、光の子らしく歩みなさいと。
神が、現在の十字架の立つ場所に私たちを導き、復活の喜びを分かち合う仲間に加えてくださるように祈りましょう。
(2016年3月27日)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。