2016年3月18日金曜日

「分かったつもりでいる罪」 森田喜之 牧師

ヨハネによる福音書9章35〜41節
  私たちは一人では生きていけません。たとえ周りに人がいたとしても、その周りの人との間に心の通い合う温もりが感じられない時、だれも周りにいない寂しさとは意味の違う、より深い孤独感にとらわれ、苦しみは増してしまいます。
 「ホームレス」支援の取組を続けている北九州の奥田牧師が「ホームレスはハウスレスとは言わない」と言って、その意味を説明されました。ホームレスについて単に住む家がなく野宿している人々のことだと誤解されている。しかし、単に住む家がないのであればハウスレスと言えばよいのに、そうは言わない。ホームという言葉は、アットホームなどという言葉からも分かるように、人と人との繋がりを含んだ言葉である。ホームレスというのは、人との繋がりが切れてしまっている状態をさしている。だから辛いのである。その意味では、家族と一緒に生活しながらも繋がりが切れてしまったような家庭内にいながらのホームレスの状態の場合もある。ホームレスの克服は、単に住む場所の確保だけではなく、人との繋がりの回復が何より必要である。
 このように説明されたのを聞いたとき、私ははっとさせられました。とても大切なことに気づかされました。
 今読んだ聖書に、外に追い出された人にイエスが出会われたと記されていました。今、追い出されたと書かれてはいますが、この人は元々から人との温もりのある心の交流から排除されている人でした。この人の物語は9章の1節から始まっています。
 先週の礼拝でも取りあげましたが、生まれつき目の見えなかった人、それが、この外に追いだされた人です。今、追いだされたということは、この物語の始まる時には、人々の中に居場所はあったということです。ただ居場所はあったとしても、弟子たちの言葉が、この盲人の置かれていた厳しい状況を象徴的に物語っています。
 弟子たちはイエスに尋ねます、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。人間というのは、なん残酷なのかと思ってしまいます。人が不幸な状態に置かれているのを見ると、その人の命の価値まで低く評価し、突き放してしまうのです。ホームレスの状態にある人を見ると、生活態度が悪いからだとか、人間としての質が悪いからだと言って、一方的にその価値を低く評価してしまう社会があります。
 不幸な状態であるだけでも辛いのに、更に人から見下され、突き放される苦しみをなぜ人はもたらそうとするのでしょう。私たちの持つ身勝手さ、自己中心的な罪深さを思わざるをえません。
 今弟子たちは、生まれつき目が見えないという苦しみを抱えている人は、本人または両親の罪に対する報いだと考え、いったい誰の罪なのかと問いました。罪の故に目が見えなくなったとマイナスの評価をくだしています。
 苦しみを抱えた人生はあってはならない人生。神さまの祝福に満たされた人生ならば、苦しみなど一切ないはず。そのような先入観でこの人を見ています。同じ先入観を私たちも抱えています。
 しかし、イエスは違う評価をします。イエスはお答えになった「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 生まれつき見えないのは、神の業が現れる器として用いられるためである、と言われました。この人は神さまに用いられる大切な命なんだ。生まれつき目が見えないということこそ、大切なんだと、それまでの人々の価値観を全く逆転させてしまうことを言われました。

 この生まれつきの盲人は、弟子たちの毒のある言葉なら、何度も耳にしてきたものでしょう。しかし、イエスの言葉は全く知ることのなかった新しい世界への扉を開く力強い言葉として響いたのではないでしょうか。自分という存在が始めて包み込まれる温もりを、イエスの声に感じたのではないでしょうか。
 今までは、人々から厄介者のように扱われてきました。しかし、今イエスによって、あなたは大切な存在なのだ、あなたを神さまが必要としておられると呼び出されたのです。
「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」。なんと不衛生的なことをするんやと感じるかもしれません。しかし、わたしは子どもの時、遊んでいて傷つくと唾を塗ることがよくありました。イエスのなさったことは当時の民間療法だったと考えられます。
 彼は、イエスに言われた通り、シロアムの池で眼を洗います。するとそこに初めての世界が広がります。目が見えるようになった。生まれつき目が見えませんでしたから、今までみたことのない世界を見ることになりました。
 この出来事は象徴的な意味を併せ持っているように思えます。彼は、ずっと周りから否定的に見られてきました。彼は生き延びるために物乞いをすることが精一杯でした。ところがイエスと出会い、人がどのように評価しているかとは別の彼を大切な存在として見守る眼差しが注がれていることを知ったのです。
 神さまはあなたを必要とされているのだと、心に響く呼びかけを聞いたのです。あなたによって神の業が現れるのだという言葉は、それまで見たことのなかった新しい世界を彼の前に広げたのです。

 今や、生まれつき目が見えなかったこの人は、これまでとは違う世界へと一歩踏み出しました。どれほどの感動が彼の身体を駆け巡ったでしょうか。             しかし、神によって生かされる新しい命に生き始めた彼と違って、彼を受け止める周りは、誰も彼に「良かったな」と声をかけません。誰も彼と喜びを共有しません。人々は、目が見えるようになった彼には関心を示さず、彼が目が見えるようになったという出来事のほうに関心を示します。
 なんという孤独でしょうか。更に彼は追い詰められていきます。目が見えるようになったのは、安息日のことでした。安息日は十戒の中でこう定められています。
「安息日を守って聖別せよ。いかなる仕事もしてはならない」。土をこねるという作業、それは仕事だと判断されていました。だから、律法を厳格に守り生活することを大切にしているファリサイ派の人々は、このことでイエスを非難しました。「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」。
 それは、イエスの語られた神の業が現れるためだという言葉を覆す言葉です。イエスの他誰も見せてくれなかった世界を、それは嘘だと言いがかりをつける言葉でした。更に、彼の両親にファリサイ派の人々がことの次第を確認しにいくと、両親までもが彼のことを突き放してしまいます。
「わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」。両親がこう言ったのは、ことの次第を追求してやまないユダヤ人たちを恐れていたからでした。

 ところで、興味深いのは、元盲人であった彼の変化です。イエスと出会うまで、彼は生まれつき目が見えないという現実の中で、人々からの、「誰かの罪の結果の命」という言葉を浴びながら過ごすだけでした。
 しかし、イエスと出会い、イエスから「あなたは神に必要とされている。あなたによって神の業が表される。あなたは神の器なのだ」と語り掛けられました。今まで見たことのない世界を見る者へと変えられたのです。
 最初、彼はイエスが自分にしてくれたことを問われるままに説明するだけでした。「イエスという方が土をこねてわたしの目に塗り『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」。
 それがファリサイ派の人々がイエスのことを非難して「その人は神のもとから来た者ではない」と言うのを聞いてと反論に出ます。「どうして罪のある人間が、こんな印を行うことができるるだろうか」と。
 イエスとの出会いを通して今味わっている喜びは、誰が否定しようとも消せない。ファリサイ派の人々が「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのか知らない」と捨て台詞のように言うと、ついにはファリサイ派の人々の逃げ口上をとらえて放さず批判します。
 「あの方がどこから来られたのか、あなたがたがご存じないといは実に不思議です。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。
 元盲人は、以前のように一方的に存在価値を否定されて終わってはいませんでした。神に必要とされている一人として立ち、周りの人々から何を言われても自分が知り得た神の愛に生きる者として証しし続けたのです。
 その結果、追いだされました。今日、外に追いだされたと聖書に書かれていたのは、会堂の外に追いだされたということでした。会堂というのは、ユダヤ人たちの共同体の中で精神的なよりどころであり、地域生活のセンターのような場所です。その外に追いだされたということは、深刻な意味を持ちます。共同体の外に追いだされたのです。
 この彼にイエスが再び出会われたのです。そして問いかけられます。「あなたは、神様の救いをもたらす方を信じるか」。これに対して彼は「私はその方を信じたい」と応えます。今まさに神様によって立ちあがらされた喜びの中にいます。共同体の外に追いだされたとしても、神が彼を必要と知らされたのです。
 今、新しい世界に生きる導きを与えてくださった目の前のイエスこそが救いをもたらす方だと知ると、彼は全信頼をもって信仰の告白をします、「主よ、信じます」。イエスはこのようにして私たちを、神に必要とされている一人として呼び出され、力づけてくださるのです。
 
 しかし、私たちは弟子たちのように、人の命を身勝手な価値基準で低く評価し、切り捨てていく罪を同時に抱えています。ファリサイ派の人々は「私は分かっている」と言って、元盲人の喜びを否定し、新しい命への歩みを阻もうとしたのです。
 私たちは、イエスによって導き出されています。この世がマイナスに評価する価値観から離れるように。「誰一人として必要とされていない者はいない」というイエスの呼びかけに応えるようにと。
 私たちは、様々な生活状況を抱えています。野宿せざるを得ない状態にまで追い詰められる人々もいます。精神的な病の故に、人との関係がうまく保てない人々もいます。追い詰められた中、自暴自棄になり犯罪を犯し刑に服した人々もいます。
 それらの一人ひとりにイエスは呼びかけられるのです「神の業がこの人にあらわれるためである」。私たちは、そのイエスの言葉の前に謙虚でありたいと願います。そして、それらの人々との出会いの中で、この主イエスによって与えられる「自分が必要とされている喜び」を分かち合う者となることができるよう導きを祈ります。
(2016年2月21日)

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